怒られるのを待っている

 逸らされた視線は私の足元の床にそそがれて、唇は笑みの形を作っているものの引き結ばれて開かない。諏訪先輩の様子がおかしい。

「先輩?」訊ねてみるものの、返ってくるのは「まあ、あがれよ」というあたりさわりのない一言だ。
 別にこれが今日だけのことなら私だって気にしない。でも、もう先週からこうなのだ。む、と唇が尖ってしまってもしかたのないことだろう。
 私が狭い玄関で靴も脱がずに突っ立っているのを、振り返って確認した諏訪先輩が、ちょっと困ったように、少し呆れたように、笑う。

「どうしたんだよ」

 どうしたんだよはこっちの台詞だ。

「先輩こそどうしたんですか」
「俺?」

 まるで心当たりがないとでも言いたげに視線を彷徨わせた先輩が、やっぱり思い当たらなかった顔で首を傾げる。

「何の話だよ」
「何って」

 何って、今のことなのに。言いたいのに言えなくって、口を閉じる。黙って突っ立っていてもしょうがないし、振り向いて部屋を出るのも本意じゃない。私は靴をのろのろと脱ぐと、「……おじゃまします」と呟いて諏訪先輩の部屋にあがった。

「何のおかまいもできませんが」
「諏訪先輩がいてくれればいいです……」

 まだぼそぼそと呟くように言う私を見て、諏訪先輩は部屋のカーテンを開けながら笑っている。「なんだよ、ただ元気ねぇだけか?」わざとなのかどうなのか分からない。

「変なのは諏訪先輩のほうですよ」

 窓際に立つ諏訪先輩に、私は鞄も下ろさずに近寄った。諏訪先輩の部屋は一か所床板が軋む場所がある。私の遠慮ない脚運びでそこがキィと鳴いたけれど、気にも留めなかった。先輩の袖を片手で掴んで、諏訪先輩の顔をじっと見上げる。諏訪先輩の顔が好きだ。大抵の人は、私が諏訪先輩のことを世界一かっこいいと言うと首を傾げるか、苦笑するけれど、私は本気でそう思っている。この人以上にかっこいい人なんていない。

「なんでキスしてくれないんですか」

 私の言葉に何の根拠もないと言われればそれまでなのだが、この一週間ほど間違いなくおかしいのだ。
 諏訪先輩はそうベタベタしたがる人でもない、というか若干そういったことを忌避している嫌いもあるが、そうでなくても、彼は優しい人なので私がキスを強請れば返してくれるくらいの気遣いはある。それがここ最近全然返してくれない。私がキスをしたいって気づかなかった? まさか、この人が一週間もそんな体たらくなわけがない。
 諏訪先輩ははっきりと私が言葉にしたその指摘に、「あ?」と素で戸惑った声を一音零したものの、怒ったふうでもなく、苛立ったふうでもなく、ただただ戸惑っていた。

「なに馬鹿なこと言ってんだ」

 しまいにはそう言って、彼の袖をつかんだ私の手を振りほどこうとするので、私は手に力をこめなおしてさらに半歩詰め寄った。

「馬鹿なことだって、先輩はずっとそう思ってたんですか」
「そういう意味じゃねぇよ」
「じゃあ諏訪先輩が今なにをどう気にしてるのか、教えてください。私馬鹿なので」

 先輩はしばらくの間押し黙っていた。沈黙に耳を澄ませて私がじっと待っていると、諏訪先輩はようやく観念したように口を開いた。

「しょうもねえことだよ」

 しょうもないことで一週間様子のおかしくなる人ではない。私が小さく頭を振ると、諏訪先輩の眼差しがわずかに険を帯びた。

「先週の日曜の朝、お前の部屋から出てきてたのって、誰だ?」

 諏訪先輩の問いかけが、ぐるりと部屋の中を一周する。私が捕まえそこねてしまって浮遊するその問いを、目で追いかけるかのように私は視線を天井に投げた。誰のことだろう。

「あれは私の兄、お兄ちゃんですよ」

 土曜日に、職場の飲み会で終電を逃して実家に帰れなくなった兄を仕方なく泊めた。そういう出来事があって、「日曜の朝に私の家から出て行った誰か」とは兄のことで間違いない。
 諏訪先輩は眼差しの険を深くして、「本当か?」と一度聞き返した。「本当です」胸を張ってそう答えられる。先週、うちに泊めたのは兄。どのような角度から証明したって、答えは変わらない。

「……ならいいんだ、俺の勘違い。悪ぃな」
「誰かほかの人だって思ったんですか?」
「勘違いしてたんだっつったろ」

 居心地の悪そうに口をへの字に曲げていく諏訪先輩とは反対に、私はさっきまで尖らせていた唇がゆるゆると笑ってしまうのを堪えられそうになかった。

「じゃあキスしてくれますか?」

 私がにやにやしながらそう訊ねると、諏訪先輩は深々とため息を吐いた。

「じゃ、お前はそのにやにやしてるのをやめるんだろうな」

 言われた私はわざとらしく口をぎゅっと閉ざして、先輩の目を見ながら真剣に頷く。諏訪先輩の顔が近づくのを、じっと目を開けて見ていたら、唇が触れる前にちょっと先輩が笑ったのが分かった。かすめるように先輩の唇が私の唇に触れて、一秒もせずに離れていく。

「諏訪先輩」

 握ったままの袖を引いて、私はちょっとだけ眉を吊り上げて見せた。

「足りるわけないです」
「じゃ、お前その見開いた目を閉じてくれるんだろうな」

 言われた私はわざとらしくぎゅうっと目を閉じる。少しも見えないけれど、再び顔を寄せてきた諏訪先輩が笑ったのが、呼吸で分かった。

「お前な、口はちょっと開けろよ」

 片手に持ったままだった鞄が床にすとんと落ちた。