土曜日、夜。大衆居酒屋で国木田と酒を飲んでいた太宰は叫んだ。国木田は「五月蝿い」と一蹴。聞かなくてもわかる。ろくなことではない。国木田は店員に厚焼きを玉子を注文。「聞いてよぉ、国木田くん」と隣から声が聞こえるが無視。ついでに法蓮草のおひたしも頼んだ。
「喧しい!今度は何だ」
「国木田くんはちゃんの元同僚でしょう?」
「そうだが。それが何だと云うんだ」
「ちゃんに独歩先生って呼ばれていたじゃない?」
の云い方を真似したのか、気色の悪い声で「独歩先生」と声に出した太宰に、国木田は背筋が粟だった。気色の悪い声を出すなと麦酒瓶で殴ってやりたかったが国木田も大人なので、公衆の面前では弁えた。
「パートナーになったというのに私は未だ太宰さん、なのだよ」
「私も名前で呼ばれたい!」などと騒ぎ乍ら太宰は三杯目の麦酒を飲み干した。心底どうでもいい、国木田の顔にはそう書いてあった。
「先生に直接云ったらどうだ」
「云ったよぉ……云ったのだけどね……」
以下回想。ときは先週の金曜日に遡る。
いつものホテル、ではなくの家にお呼ばれした太宰は浮かれていた。女性の家に行くのは初めてではない。けれど好きな子の家に行くのは初めてだ。思春期の男子よろしく緊張などはしないが、浮かれはする。片手に有名な洋菓子店の箱を持つくらいには。太宰はDomだ。を支配したいとも思っているけれど、同じくらい甘やかして褒めて自分だけに依存させたいとも思っているのだ。
「やあ、ちゃん。こんにちは」
「こんにちは、太宰さん」
待ち合わせ場所である駅に着けば、は既にいた。太宰に気付いたは笑顔で太宰と挨拶を交わす。それだけで太宰にはどうしようもなく可愛く見えるのだ。パートナーになってからは尚のこと。
「ちゃん西洋菓子好き?持ってきたのだけど」
「わ、ありがとうございます。好きです」
人は西洋菓子を運ぶとき優しくなるなどと云うが太宰はといるだけで優しくなれる。そんな気がした。
駅から歩いて数分、そう遠くないマンションがの住居。全自動施錠扉付き、十階建て、鉄筋造り、その五階の角がの部屋。太宰は全自動施錠扉付きなら安心などと考え乍らと一緒に昇降機に乗り込んだ。
その際、別の部屋の住人らしき女性も一緒だった。が彼女に「何階ですか?」と声を掛ければ「6階をお願いします」と。はそれに頷いて6のボタンを押す。彼女はそれに礼を述べた後、の後ろに立っていた太宰を見て「治さん?!」と驚きの声を上げた。
「えっ」
「治さんですよね?私のこと覚えてますか?」
まずい。非常にまずい。太宰の米神から汗がひとつ。
太宰は女癖が悪い。と出会ってからはなくなったが、Domとしての欲求を満たす為、手当たり次第いろんな女性に手を出したこともある。若気の至り、なんてかわいい言葉で許されないくらいには。
しかし太宰は女をとっかえひっかえするが、アフターケアをしない。遊んだらポイ、そういう男だ。故に拗れるし、爆弾を送りつけられたりする。
「治さん?」
「いや……、ええっと、…………君誰だっけ?」
がいる手前、自分は治じゃないとも云えないし、けれど彼女のことは覚えていないし、否もうちょっとよく考えれば思い出すかもしれない。太宰の頭なら。けれどそれも出来ず太宰は只管に焦っていた。だってがいるから。は太宰と彼女をじっと見つめていた。何も口にせず。太宰は慌てて口にした。昇降機が止まる。
「ちゃん、違うのだよ、誤解だ」
昇降機内で「五回です」と云う機械の声と太宰の声が重なった。
「お、美味しい?」
「はい」
「紅茶のおかわりいる?淹れようか?」
「まだあるので大丈夫です」
「そ、そう……」
会話は終了、太宰は撃沈。は太宰が購ってきた西洋菓子を咀嚼している。真顔で。は素直な性格で、美味しいものは美味しいと顔に出るのに。真顔だ。原因が自身にあるとわかっているからこそ、太宰は強く出られない。
あの後、彼女に「今は大事な子がいるから、ごめんね」と爽やかに紳士的にそう云った太宰はの手を取って部屋番号を聞くと足早に部屋に向かった。
の部屋に上がったはいいものの、はずっと無言だった。からは何も訊かずただ西洋菓子を咀嚼する。
「ちゃん」
「はい」
「いや、あの、えっと……美味しい?」
「はい」
会話は終了、第二ラウンドも太宰は撃沈。一体何ラウンドやる気だこれ、はそんなことを考えた。は隣で縮こまる成人男性を少し面白く感じながら「太宰さん」と太宰を呼ぶ。
「私、別に怒ってませんよ」
「え、本当に?」
「はい。嫉妬しないって云ったら嘘ですけど、今は私だけなんですよね?」
「勿論!ちゃん以外はいないよ、本当に」
「ならいいです」
はパートナーである太宰を信頼している。彼女と今でも付き合いがあるのなら話は別だけれど、昔の話なら別に良いのだ。と太宰が未だパートナーになる前の話なら、別に。
太宰はほっと息を吐くと「私も西洋菓子食べたいなぁ」と猫撫で声を出した。
「一口ちょうだい?」
あーんと口を開けて待つ太宰に、は一口分の西洋菓子が刺さったフォークを差し出した。それを素直に口にした太宰を見て、は餌付けみたいだと、ちょっと楽しくなった。太宰は安堵していた。は怒っていない。大丈夫。そう、安心しきっていたのだ。
「美味しいねぇ、これ」
「太宰さん、もう一口いりますか?」
「否、いいよ。ありがとう。残りはちゃんが食べ給え」
「それよりも」と太宰はいつになく真剣な顔でを見た。
「いつまで太宰さん、と呼ぶ心算だい? パートナーになったのだし、名前で呼んでおくれよ」
は残り数口分だった西洋菓子を平げ、空になった皿を硝子卓に置いてから、いつものように笑った。
「太宰さんには、名前で呼んでくださる女性がごまんといるでしょう」
は怒っていないし、嫉妬はしたけれど太宰を許したし、太宰の今はだけという言葉だって信じている。ならばなぜそんなことを云うのか、答えは簡単。先日太宰に苛められた仕返しなのだ。
ここで回想は終了。国木田は「お前が悪いな」と日本酒に口をつけた。太宰による回想を聞いている間に麦酒を二杯飲み干した。
「そりゃあ、そうかもしれないけど!」
「かも、ではなくお前が悪い。断じて悪い」
「そうだけどおっ! 私だって名前で呼ばれたい!」
「ええい、喧しい! 藤咲先生、どうにかしてくれ」
「……え、え、っと……お、治さん……?」
太宰の時が止まる。此処には居ない筈のがいること、そのの口から己の名前が聞こえたこと。「ちゃん如何して此処に」とぽかんとした顔の太宰に国木田が説明した。俺が呼んだ。説明終わり。
「二人きりのときに呼ばれたかった!」
酔っ払いの我儘である。太宰がこんなに酔っ払っているところを国木田は初めて見た。それほどの存在が大きいのか、と国木田は太宰をこんな風にしてしまえるに尊敬の念を抱いた。がいれば仕事も真面目にするんじゃないのか、此奴。国木田はそんなことを考え乍ら本日何度目かの「喧しい!」を口にした。
「すまん、先生。俺は帰る。ここの金は奴が出す、好きなものを食え」
「え、あっ、お、お疲れさまでした」
スタスタと去っていく国木田を見送ったは、太宰に目を向ける。太宰は不貞腐れたような、拗ねたような顔で何杯目かわからない日本酒を呷った。
「飲み過ぎですよ、太宰さん」
「……もう名前で呼んでくれないの」
ちらりとを見遣った太宰の顔は赤く染まっている。酒の所為か、慣れないことをしている所為か、太宰自身にも判断はつきかねる。
は少し考える。考えて、太宰の頭をそっと撫でた。
「二人きりのときが良いんですよね」
太宰は矢っ張りきっとこの先には敵わないのだろうと、酔いの回った頭で思ったのだ。