不穏なワードパレットでいろんな人

1 死体、花束、白い壁(mhyk/オーエン)
3 午前二時、窓辺、鎮痛剤(mhyk/ヒースクリフ)
4 ラムネ、劇薬、チョコレート(A3!/千景)
5 銃口、束縛、銀の毒(mhyk/ネロ)
6 写真、殺意、蜘蛛の糸(bnst/芥川)
8 溺死、三月、ピアス(twst/アズール)
9 紫煙、報酬、ディストピア(mhyk/シャイロック)
10 呪い、狼、子宮(mhyk/フィガロ)
11 嘆き、本能、注射器(twst/アズール)
12 噛み傷、リキュール、アイライン(mhyk/フィガロ)
13 指先、麻薬、赤い頬(mhyk/カイン)
15 拒絶、矛盾、兄(twst/ジェイド)
15 拒絶、矛盾、兄(mhyk/ムル)









※動物が死ぬ描写があります。

手向けの花だと、彼女は言っていた。窓際に置かれたそれが視界に入るのが鬱陶しくて、燃やしてしまおうかと思ったけれど、彼女の手が止まるほうがもっと嫌だったから、それから目を逸らした。

「可哀想な子」

一月ほど前に見た猫の死体を思い出して、そう呟けば彼女がこちらに振り向いた。

「なあに? 何か言った?」
「何も言ってない。それより出来たの?」

「まだ作り始めたばかりだよ」と返す彼女の隣に寄って手元を覗き込めば、クリームを泡立てているところだった。以前の彼女なら、クリームを泡立てるなんてもうとっくに終わっている。全てを手作業でやるから遅いのだ。
僕はどうして彼女が魔法を使えなくなったのか知らない。恐らく何か約束を破ったのだろうけど、誰と何を約束したのかも、僕にはわからない。
ちょうどあの猫が死んだ日だ。彼女はもう鳴かない猫を膝に抱えて泣いていた。それから僕に言った。「ごめんね、もうオーエンと一緒に生きていけないの」と。別に一緒に生きていたつもりはなかった。ただ、彼女の作る菓子は気に入っていて、側にいるのも存外悪くなくて、だからそうしていただけ。一緒に生きている、なんて僕は一度も思ったことはないし、彼女にもそう言ったけれど、彼女は「ごめんね」と繰り返すだけだった。でもそれはもっと別の、違う何かに対する謝罪のような気がしたけれど、それが何かも僕にはわからなかった。

「あの花束」
「ああ、あれ? 手向けの花だよ」
「それは聞いたよ。枯れてるよ、あれ」
「え、本当? 気付かなかった」

「捨てておかなきゃね」と、彼女がクリームに砂糖を加えていく。砂糖の入った瓶を彼女の手から奪って、中身を全部入れてやった。彼女が「わっ、ちょっと、全部は多い!」とボウルを僕から遠ざけるように掲げた。その拍子に中のクリームが飛んで、彼女の家の、白い壁を汚した。
花を枯らせる彼女を見たのは初めてだった。彼女は花や動物や生き物が好きで、惜しみなく愛情を捧げていた。僕はそれを馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど。

「もう! 邪魔するなら作らないよ」
「は? さっさと作ってよ。そもそも、きみがこの間作ってくれるって言ったのにあの猫に構ってたのが悪いんだろ」

いつも彼女は僕の言うことを一番に聞いた。でも、あの日。あの猫が死んだ日、彼女は僕のお願いより猫が瀕死だからと、彼女は初めて僕より猫を優先した。それがなぜだか無性に腹立たしかったのを憶えている。
猫は時々彼女の家に餌を貰いに来る野良で、別の野良猫と喧嘩でもしたのだろう。血を流し、満足に呼吸も出来なくなっている猫を、彼女は甲斐甲斐しく世話をした。何度も何度も呪文を唱えて、猫の呼吸を正常に戻そうとした。それが彼女が最後に使った魔法だった。結局、彼女の世話も魔法も意味のないものになったけれど。
動物と話がしたいと強請る彼女に、彼女の作る菓子と引き換えに願いを聞いてやったことだってある。猫が死んでから、彼女はそういうお願いを一切しなくなった。
掲げたボウルを戻した彼女は「ごめんね」と、あの日と同じように言う。

「約束、守れなくてごめんね」
「……何の話?」
「ずうっと昔の話。だからきっとオーエンは覚えてないよ」

そう言うと、彼女は菓子作りを再開した。僕はそれに「覚えてないね。待つの飽きたから出来たら呼んで」と返して、彼女の家を出た。


「おまえもあの子に餌を貰いに来たの?」

庭に居た野良猫にそう声を掛ければ、猫は僕の足元に擦り寄って、甘えるように鳴いた。まだ子猫だ。

「おまえ、どこから来たの。母親は? わからないの。そう。……僕も僕がわからないんだ」

───いつだって、どんなときだって、オーエンを一番に優先するよ。約束する。

だって、あれは僕に向けられた言葉じゃなかった。僕の知らない僕に向けられた言葉で、だから、僕はずっと忘れていたのに。今更思い出すなんて馬鹿らしい。もう何もかも遅い。

───だから、もう一人で泣かないでね。

僕はその言葉に頷かなかった。彼女も頷かなくて良いと言った。勝手に約束をしたのは彼女だ。彼女が魔法を使えなくなったのだって、彼女の責任だ。でも、だけど、彼女を人間にしてしまったのは、僕だ。

(2020.12.14/カタストロフだけが待っている)

目が覚めても真っ暗で、まだ夜中だと理解出来た。痛む頭を押さえながら、ベッドから出てバスルームへ向かう。
すい、と指を動かせば部屋は一気に明るくなって、視界の端に映る時計は午前二時を指していた。
バスルームの棚に並べられたいくつもの小瓶のひとつを手にして、中身を雑に手の平に出す。何粒か床に転がったけれど、拾い上げるのも億劫でそのままにした。鎮痛剤のおかげで頭痛は少しずつ和らいでいった。それでもまだほんの少しだけ痛む。寝ていたほうが楽なのはわかっているけれど、そういう気にもなれず、ココアの入ったカップを片手に外へ出た。ぎゅっと雪を踏みしめる音が響く。

「こんばんは……」

どこか気まずそうな声と表情で挨拶をしてきたのはヒースクリフだった。そんな顔をするくらいなら来なければ良いのに、私はいつもそう思っているけれど、それを言葉にしたことはない。

「こんばんは。いい子は寝る時間よ」

「それに、こんな夜更けにレディを訪ねるのは不躾だわ」と言えば、ヒースは怯えるように目を逸らして小さく謝罪の言葉を口にした。

「心配だったから……」

そう言ってまた謝罪したヒースに、家の中へ入るように促す。目を丸くするヒースに「凍え死にしたいのならそのままそこにいたら」と言えば、ヒースは慌てて家へ入った。この寒さのなか、若い魔法使いを放っておくほど私は鬼ではないし、ヒースが来てくれたことが嬉しくないわけでもない。
前回ヒースが来たのはひと月ほど前だ。「また散らかしてる」とヒースは一人言みたいに呟いた。「片付け苦手なの」と言えば、ヒースは僅かに肩を跳ねさせたから、やっぱりさっきの言葉は一人言だったのだろう。
ヒースの分のココアを淹れながら、窓辺にオルゴールを置いたままだったことに気付く。それはヒースがくれたもので、美しい花の装飾が施されている。「気休めですけど、多少は痛みが和らぐかもしれません」と自信なさげにそれを私に差し出したときのヒースの顔が、私は結構好きだった。ヒースの魔法がかかっているそのオルゴールは、確かにヒースの言う通り気休めだった。オルゴールのおかげで痛みが引く、ということはないけれど、私の心を穏やかにしてくれているのは確かだ。だからずっと、いつでも手の届く所に置いてある。
「あのオルゴール」とソファに掛けたヒースが窓辺へ目を向けたまま言う。ヒースに気付かれる前に片付けておくべきだった。

「……音色が気に入っているの。あなたがくれたからじゃないわ」
「わかってます。でも、気に入ってくれてよかった。祈りをこめたから」

ヒースはふわりと、あのオルゴールの装飾のように美しく笑った。祈り、と聞いて、そういえばヒースの先生はファウストだったなと思い出す。呪い屋に教えを乞うているにしては、随分と優しい祈りを込めるものだ。
祈りと呪いはよく似ている。私は祈ることも呪うことも得意ではなかった。だって私は、自分の気持ちを言葉にするのが苦手だから。

(2021.02.03/あなたのために祈るよ)

汗で張り付いた前髪が気持ち悪かった。荒くなった呼吸が落ち着くことはなく、ぽたりぽたりと汗が毛布を濡らした。
不意に光が差し込んでベッドの上に影が差す。「起きた?」と問いかける声に顔を上げれば、優しそうに微笑んだ千景が、私を見下ろしていた。

「起き、た」
「悪い夢でも見た?」

「ひどい顔だな」と千景は一度部屋を出ると、すぐに小瓶を片手に戻ってきた。中身はラムネに似た錠剤で、恐らくは精神安定剤だけれど、本当のところは知らない。悪夢を見たときとか、悲しくなったときとか、自分で自分をコントロール出来なくなったときに飲むと良いと千景がくれたものだから。
カシャン、カシャン。二錠ほど手の平に乗せられたそれを、千景が目線だけで「飲め」と言う。手の平を唇に押し付けて、ベッドサイドに置いていたミネラルウォーターのペットボトルを手にする。もうすぐ冬が終わるというのにまだ低い気温のせいか、部屋に置いてあっても冷たい水が喉を通っていく。

「飲んだ?」
「飲んだ。ねえ、これ、何の薬?」

千景は小瓶をサイドテーブルに置くと、「劇薬」と一言。それはきっと、千景お得意の嘘だ。千景はいつだって私に優しい。
好きでこんなふうになったわけじゃない。社会生活の中での小さな違和感が積もって、私の心の中にある器を一杯にして、その器が壊れて、そんなときに結婚を約束していた彼氏の浮気が発覚して、いろんなことが一杯一杯で、堪え切れなくなって、とうとう薄暗い部屋で引き籠るようになってしまった。悪夢ばかり見るようになって、外に出るのが、人と会うのが怖くなって、誰も信用出来なくなった。
通院のためだけに、月に数度外に出ることがあった。その日はいつもより少しだけ調子が良くて、人気の無い公園に寄って行った。千景と出会ったのはそのときだった。千景は公園のゴミ箱に、綺麗な箱を捨てるところだった。どう見ても貰い物だろうに、捨ててしまうのかとぼんやり見ていた。

「……何か?」

怪訝な顔を向けられて、「す、すみません……。綺麗な箱だと思って……」と良くわからない言葉を返したのを覚えている。千景は「ならあげる」とその箱を私に差し出した。私が何か言う暇も与えず、千景は「俺、チョコレート嫌いなんだ」と言って去った。
それから病院の帰りに何度か会うようになった。私が、私の家の合鍵を千景に渡すまで、そう時間はかからなかった。
これが恋愛感情なのかと言われたら、違う。千景のことは好きだけど、キスをしたいだとか性行をしたいだとかは思わない。それは千景も同じだった。
私は私に優しくしてくれる誰かが、千景は千景にとって都合の良い誰かが、傍にいて欲しいだけ。
実際、千景は会社での女除けに、私を理由にしている。本当に時々、外に出て千景の彼女になることだってある。そういうとき、偶然にも千景と同じ会社の女性が近くにいることが多く、女除けの理由として私はきちんと存在出来ている。
誰も信用出来なかったけれど、千景の優しさは信用出来た。だって、どうして私に優しくしてくれるのか、その理由が明確にわかるから。私たちは、互いに都合の良い存在。

「千景」
「何? もう少し寝たら?」
「……私もね、チョコレート嫌いなの」

「あの甘さ、うんざりするでしょ」と言ったら、千景は肯定するかのように微笑んだ。

(2021.01.16/ほんとうは全部嫌いだよ)

「ネロ」と呼べば、ネロは手を止めることなくこちらを向いて口を開けた。私はスプーンに掬ったスープを、ネロの口に運ぶ。「どう……?」と訊く私を見下ろして、ネロは「悪くねぇな」と言った。私はそれに安堵しながら、でも何かが足りない気がして、一度味見したそれをまた口へ運んだ。

「なんか……何か足りなくない?」

そう言うとネロは「そうか?」と言いながらまた口を開けた。私は先程と同じように、スープを一口ばかりネロの口へ運ぶ。ネロは一度目より時間をかけてそれを飲み込むと「うーん……」と唸った。それから「コショウをひとつまみ入れてみたらどうだ?」と言うから、私はそれに従って、ひとつまみのコショウを入れた。鍋をかき混ぜて、また味見する。

「ん……! 美味しい!」
「なら、もうスープは俺が居なくても作れるな」
「……嘘。全然美味しくない」
「今美味しいって言ったばっかじゃねぇか」
「美味しくないったら美味しくないの!」
「今まで俺が作ったのも美味しくなかったか?」
「……美味しかった」
「なら、それだって同じだ。材料も分量も手順も、俺が教えた通りで、は何ひとつ間違ってなかった」

賢者の魔法使いに選ばれたネロに、一度だけで良いから顔が見たい。だから少しの間だけでも帰って来て欲しいとわがままを言ったのは私だった。ネロは口では突き放すようなことを言うけれど、本当は優しくて、一度気にかけたら放っておけない性分なのを私は知っている。
ネロは一週間だけうちに居てくれると言った。「ネロのごはんがないと生きていけない」とネロに縋った私に、その一週間の間に作り方を教えるからと。
ネロが東の国で店を構え始めたばかりの頃、その美味しさに私はネロの店に何度か金銭面で援助をした。見返りなんて求めていなかったし、ネロのごはんが食べられればそれで良かった。でも、時々ネロがいつものお礼だと、デザートをおまけしてくれたり、試作品の味見をさせてくれたり、そういうのが嬉しかった。
ネロが賢者の魔法使いに選ばれたと聞いたとき、銃口を突きつけられた気分だった。だって、もうその頃には私はネロが居ないと生きていけなくなってしまっていたから。

「次はの好きなパエリアの作り方を教えるよ」
「……それで最後?」

ネロがうちに来て、今日で七日目だ。ネロはそれまで動かしていた手を止めて、私を見た。「ああ」とネロが頷く。

「それで最後だ」

「泣くなよ」とネロの手が、熱くなった私の目尻に触れる。優しい声、優しい手。ネロの料理はどれも優しい味がするから好きだった。
魔法使いは長生きだから、生きていればどこかで会えるかもしれない。でもネロは賢者の魔法使いだ。役目を背負った、特別な魔法使い。いつ石になってしまうかもわからない。だから、ずっとここに居てほしい。ネロのごはんは口実でしかなかった。本当は、ネロ自身が傍にいてくれないと嫌だし、そう言ってしまいたかった。けれど、私にはネロを束縛することは出来ないし、したくない。

「……ネロは優しいね」

優しい人はずるい。だって、それ以上何も言わせてくれないから。
ネロは「そんなことないよ」とまた手を動かした。それから私もネロもしばらくは何も話さなかった。夕食のメニューを全て作り終えたとき、ネロが「アドノディス・オムニス」と呪文を唱えると、綺麗な装飾が施された銀食器が現れた。

「これ、何?」
「魔法のフォークだよ」

「多少失敗しても、それで食べれば俺が作ったものと同じ味になる」とネロは続けた。祝福の魔法がかかっているそれは、ネロの優しさだとわかっている。けれど私には、そんなの毒でしかなかった。傍には居てくれないのに、ネロを思い出させるようなことをするのだから。

が俺の飯を好きだって言ってくれて、嬉しかったよ」

その言葉は本心だろうけれど、ネロはどこか諦めたかのように言った。「金のことだって、感謝してる」と。また涙が溢れそうになった私の目尻に、ネロの指がそっと触れる。ネロは「ごめん」と呟いた。私は明日から、優しさという銀の毒を食しながら生きていかなければならないのだ。そう思うと、涙が止まらなかった。もう明日からは涙を拭ってくれるネロは傍に居ない。

(2020.12.15/やさしさばかりが溢れてる)

※「明日のひかりを数える」と「ひかりの先の園」と同じ夢主

あちこちに張られた蜘蛛の糸が、この家の時間が止まっていることを示しめていた。はをそれを手で払い乍ら、奥へと進んで行き、やがて一つの部屋の前で足を止めた。「父のアトリエなの」、後ろに居る芥川にそう声を掛けると、は扉を開けた。

「埃っぽくてごめんなさいね」

ケホ、と小さく咳き込んだ芥川には「帰っても良いから」と、芥川の顔を覗き込んだ。芥川はそれに否定の意を返す。
の父親が亡くなってから、随分と時間が経っていた。「遺品整理をしないといけないのだけど……、一人だとどうしても進まなくて。一緒に行く?」と云ったに、芥川は首肯いた。はそれに些か驚いたけれど、二人で足を運ぶこととなった。
アトリエには作りかけの人形たちと何冊かの本、そのままになった食器たち。の云う通り埃っぽかったけれど、この家の中では一番「生きた部屋」だった。

「欲しいものがあったら持って行っていいわよ」

芥川は部屋を見回して、壁に貼られた一枚の写真に目を留めた。特段欲しいものや、気になるものなどなかったけれど、その写真に芥川は釘付けになった。芥川はそれを見た記憶があるから。

「……以前、貴女が見せてきたものと似ている」

大人の女が一人と、男が一人、それから子供が写っている。子供と女の顔はよく似ていた。家族がよく撮る、家族写真と云うもので、三人とも美しい。
は「よく憶えているわねぇ」と感心したように微笑んだ。

「あれは父と母と、父の作った母に似た人形の写真。これは……、これも、人形ね」
「何故判る」
「私、父が嫌いだった」

「ずっと殺意を抱いてたの」と、は写真を壁から剥がした。「要る?」と芥川に差し出したけれど、芥川は首を横に振った。

「嫌いな人間のことほど、判ってしまうものなのよ」

そう云うとは写真を破り捨てた。「芥川くんのお父さんってどんな人?」とは片付けを始めた。芥川は少し考えてから、「僕は親の顔など知らぬ」と返す。
は何冊かの本だけを机に集めると、部屋を見回してから「後は全部捨てちゃお」と呟いた。

「そう。でも、貴方は綺麗な顔をしているから、きっとお父さんも美形だと思うわ」
「……」
「若しかして、私、気に触ることを云ってしまった?」
「……否。……捨てるのか、全部」
「ええ。本は店に持って行くけど、他のものは要らないから」

「欲しいもの、本当に無いの?」とは首を傾げた。芥川は首肯く。本当に欲しいものは、そう簡単には手に入らない。芥川はそれをよく知っている。
は「そう」と返すと本を抱えた。本の重さでよろめいたを、芥川が咄嗟に支える。「わ、ありがとう」と照れ臭そうに笑った顔で、は芥川を見上げた。芥川はすぐにから離れたけれど、その際にの手から本を取り上げた。
「店に持って行くのだろう」と部屋を後にしようとする芥川に、は「え、えぇ。そうだけど……」と狼狽える。

「重いでしょ、それ」
「問題ない」
「そう。……そう、なら、お願いしようかしら」

は喜びの滲んだ声で笑う。「今日はその本だけ店に持って行って、後は明日やろうかな」と、部屋を後にした。
「明日も、手伝ってくれる?」と訊くを芥川は一瞥して、首肯いた。明日の約束をすることは、もう、二人にとって当たり前のようになっていた。

(2020.12.14/ひかり刺す明日へ)

三月の海なんてまだまだ冷たくて、波に触れた足先が冷えていく感覚に、身体を震わせた。どこまでも広がる暗い海をぼうっと眺める。この辺りの海は波が荒くて危ない。ずっと昔、子供が溺れて死んだことがあるから近付いてはいけない、と言っていたのは誰だったか。

「こんばんは」

急に背後から聞こえた声に、私は驚いて声も出ぬまま振り返った。そこにはランタンを持った少年が居た。薄ぼんやりとだけれど、ランタンに照らされた少年は美しく、思わず見惚れてしまった。

「こんな夜更けに女性が一人で、危ないですよ」

少年というには似つかわしくない、落ち着いた声だった。私は少しだけ迷って、彼から目を逸らして、海へと目を戻した。

「……探し物をしているんです」

「探し物?」と私の隣に並んだ彼に、頷いて昔話をする。
ずっと昔の今日、この海で子供が溺れて死んだ。子供は母親の形見である真珠のピアスをいつも持ち歩いていた。肌身離さず。子供の遺体は数日で見つかったけれど、子供が持っていたピアスは未だに見つかっていない。

「そのピアスを貴女は探していると?」
「……いいえ、もっと違うものです」
「違うもの?」
「はい。でももう見つかりました」

私が彼をじっと見つめると、彼は不思議そうに首を傾げた。私は彼の手からランタンを奪って、海へ放り投げた。その灯りは少し眩しかったから。
私は「あの話には続きがあるんです」と彼の腕を引いて歩き出した。歩いて、歩いて、時々転びそうになって、彼が私を支えてくれた。しばらく歩いて着いたのは、ゴツゴツとした岩が並ぶ場所。

「あの日、確かに子供はここで溺れました。でも、子供は死にませんでした。生きて、陸へ戻って来られたんです」

この海では子供が溺れることが多かった。けれど、溺死した子供は一人もいない。「溺れて死んだ子供がいる」は大人たちが、子供を海へ近付けさせない為の脅しだった。

「あなたが私を助けたから」

あの日、私が溺れた日。私は生きて陸へ帰って来られた。気が付いたら浜辺で寝ていて、でも母の形見は見当たらなかった。
彼は微笑むと、自分の腕から私の手をそっと剥がした。そうして、口を開く。

「貴女の大切なものを貰います。その代わり、貴女を助けて差し上げます」

私は人間だから海の中で喋ることなんて出来ず、意識が遠のいていく感覚を、あの日のことを、あの日の少年のその言葉を、今でも夢に見る。
ずっと返して欲しかった。どうか、どうか見つかりますようにとずっと願ってきた。私の命なんて、助けてくれなくて良かった。母の形見が、あのピアスが誰かの手に渡ってしまうほうが恐ろしかったから。
海の中で聞いたときよりも鮮明なその言葉に、私は彼から目を逸らして「真珠のピアスは母の形見で、この命より大切なものだったんです」と言った。彼は優しく微笑むと、ポケットから真珠のピアスを取り出した。私の手を取ると、掌にそれをそっとのせる。

「これが禁術に必要な道具であると、僕は知っていました」

逸らした目を彼に戻す。でも彼はどこか遠くを見ていて、視線が交わることはなかった。「亡くなったお母様を、生き返らせようとしたのでしょう」と彼が囁く。波の音が遠くなっていく、そんな気がした。

「……一目惚れでした」
「え」
「貴女に死んで欲しくなかった」

「ずっと貴女に相応しい僕になったら迎えに来ようと思っていたんです」と、彼が笑った。
死者蘇生は禁術だ。真偽のほどは定かではないけれど、手を出した術者は悉くその身を滅ぼした。私はそれでも良かった。母が戻ってくるのなら、この命なんて惜しくはない、本気でそう思っていた。

「それが貴女の命より大切だと言うのなら、お返しします」

私は彼の顔を見れず、ただピアスを見つめていた。彼が「いえ。言い方を変えましょう」と言う。それから、私の髪を撫でた。髪を撫でた手が耳を滑り、頬へ滑り、やがて私の首で止まる。

「貴女の大切なものはお返しします。その代わり、貴女を僕にください」

ずっと探していた。母の形見であり、母を生き返らせるのに必要な真珠のピアスを。そして、それを持っているであろう少年を。私が待ち焦がれていたように、彼も私を待っていたのだ。今日、私を迎えに来るために。そのために、彼はあの日私を助けたのだ。あれからもう何十年も経っている。彼は今日まで、ずっと私を忘れず、ピアスを持ち続けていた。
私の手からピアスが落ちて、夜の海へと沈んでいった。

(2020.12.21/告解)

あの人の目に映るものが全て塵になってしまえば良いのに。紫煙を燻らせて談話室の様子を眺めるシャイロックを見て思う。
談話室には西の魔法使いたちと賢者様が仲良く会話に花を咲かせている。わたしをここまで案内してくれたカインは用があるからと出て行った。シャイロックに用があって来たけれど、また今度にしようかな、と踵を返そうとしたわたしに「あ、だ!」とムルが気付いた。観念して「こんにちは」と言えば、各々が挨拶を返してくれる。

「どうされたのですか、
「シャイロックに用事」
「おや、私に?」

「例の本」とだけ言えば、シャイロックには伝わったようで、シャイロックは何も言わず席を立った。それを興味津々といった顔で見る魔法使いたちと賢者様にシャイロックが「少し席を外します」と微笑んだ。


「本当にこんなものでいいの?」

先日シャイロックにちょっとしたお願い事をしたのはわたしだった。その報酬としてシャイロックが要求したのは「わたしが書いた絵本」で、飾り気のない表紙のそれをシャイロックに差し出した。シャイロックは礼を言いながらそれを受け取ると「ええ、これが良いのですよ」と微笑んだ。
もう辞めてしまったけれど、わたしはほんの数ヶ月前で絵本作家を職業としていて、魔法をかけた絵本が人間の子供達に人気だった。

「あなたが作家でなくなって残念です」

絵本らしからぬ表紙を撫でながらシャイロックが言う。
わたしが絵本作家になったのは、たまたま絵を描くのが得意だったからだ。その次に得意だったのが物語を作ることで、幼い頃から人付き合いが苦手なわたしは、そうやって自分の世界を作って生きていた。
けれどシャイロックに出会ってからわたしの世界は変わってしまった。誰の侵入も許さなかった世界に初めてシャイロックという色が付いて、わたしはそれからどうしても絵本を描けなくなった。シャイロックの世界に、わたしは色を付けることは出来ないのに。

「ところで、どんなお話を書かれたのですか?」

シャイロックがどうしてわたしの描いた絵本を要求してきたのかは知らない。シャイロックが魂が砕けたばかりのムルの面倒を見ていた頃に、ムルにわたしの絵本を見せたというのを聞いただけ。
シャイロックの問いに何て答えようか悩んで、ほんの一瞬だけ嘘を吐くという考えが頭を過った。けれどその本はきっと、わたしが人生で描く最後の本になるだろうと、口を開いた。

「ディストピア」

(2021.05.06/崩壊)

遠くで狼の鳴き声がする。冷たい玄関先の床で、毛布に包まっていれば扉の開く音。顔を上げれば一瞬見えた扉の外はひどい吹雪だった。先ほどより鮮明に聞こえた狼の声はすぐに消える。「そこでずっと待ってたの?」と私と同じ床に座り込んだフィガロ様に問われて、頷いた。寒かっただろと頬に触れる手は、私よりずっと冷たい。

「おかえりなさい」
「ただいま。いい子にしていた?」
「はい。誰が来ても出ませんでした」

フィガロ様は出かけるとき、いつも何個か「言いつけ」をしていく。その一つが「誰が来てもドアを開けない」ことだった。フィガロ様はいい子、と私の頭を撫でて、寒いから中に入ろうと毛布ごと私を抱え上げた。

「ホットミルクを飲む? 蜂蜜を入れようか」
「はい。うんと甘くしてください」
「いいよ」

ソファに私を下ろしたフィガロ様はそう言って優しく笑う。フィガロ様は私を拾ったときから、いつも優しい。
魔法使いの男と結婚が決まっていた。けれど私の子宮に宿った命のことを知ると、その男は途端に自分には責任が持てないのだと姿を消し、追い討ちをかけるかのように腹の中の子は流れ、その命の灯火も消えた。男はご丁寧に私に呪いまでかけた。そのせいで私は歩けない。足は今までと変わらずあるのに、全く機能しないのだ。一人では歩けず、北の厳しい寒さのなか死んでいくのだろうと思っていたとき、フィガロ様に拾われた。家の中の移動は、フィガロ様が用意してくれた車椅子や短い距離なら匍匐で事足りるけれど、フィガロ様がいるときはフィガロ様が私を抱えてくれる。疲れるだろうし、全く移動手段がないわけでもないから最初は遠慮していたけれど、フィガロ様は譲らなかった。

、明日は街に出ようか」

呪いを解いてくれる所があると言われて頷いたけれど、呪いが解けたらもうフィガロ様と一緒にはいられない。無意識のうちにマグカップを持つ手に力が入る。人間の私がフィガロ様とずっと一緒にいられるとは思っていないけれど、このさみしい人のそばを離れたくなかった。

「フィガロ様、私……」
はずっとここにいるべきじゃないよ、わかるだろ」
「……はい」
「次は人間と結婚するといい。きっと子宝にも恵まれる。そのうち南の国で医者をやるつもりだから、もしまた子供が出来たらそのときはおいで、面倒を見るよ」

目を伏せてそう言ったフィガロ様に、私は何も返せなかった。

(2022.04.05 / いつかの祝福は地獄への幕開け)

※倫理観無い

「やだっ、やだやだやだあ!」

泣き喚きながら暴れる彼女を押さえつけて、手にした注射器の針を手早く彼女の二の腕に刺す。薬は血管を巡り彼女の身体を支配して、やがて彼女は静かになる。それでも尚「やだ……」と泣く彼女の目尻に触れて、そっと涙を拭ってやる。自分のこの手は、彼女の涙を拭うためにあるもので、その涙の原因を作っているのは自分だと思うと、悲しくもあり、嬉しくもあった。彼女が、僕のことで頭をいっぱいにすればいいのにとずっと願ってきたから。
幼い頃、彼女は僕に優しかった。みんなが僕を嫌っていたけれど、彼女はいつも僕に話しかけてくれて、僕のことが好きだと言ってくれた。「アズくん、これなんて読むの?」と本や教科書を広げて、僕を頼ってくれることが嬉しかった。彼女は僕を好きでいてくれる。ずっとそうだと思っていた。


「アズくん、私ねえ、彼氏できたの!」

NRCに入学してから彼女に会える時間は減ってしまったけれど、それでも彼女はモストロ・ラウンジの一般開放日にはよく来てくれたし、手紙も何通もくれた。何年経っても僕のことを好きでいてくれていると信じていた彼女からそれを聞いて、僕は手にしたコーヒーカップを落とさないように必死だった。休日の今日、会いたいと誘ってきたのは彼女のほうで、街で彼女の買い物に付き合って、休憩がてら入ったカフェでのことだ。

「は」
「人間の男の子でね、すっごく優しいんだよ」

「授業でわからないときとか教えてくれて」と話しながら、彼女がタルトを頬張る。
彼女が頼るのは、ずっと、いつだって自分だったのに。ずっと、ずっとずっとずっと、ずっと、永遠に、彼女の隣にいるのは、自分のはずなのに。

「……どこで間違ったんでしょう」
「アズくん? 何か言った?」
「いえ、何でもありません。さん、この後僕に付き合ってくださいますか?」
「うん、いいけど、どこに行くの?」
「まだ秘密です」

彼女は知らないのだ。僕が、どれほど彼女を愛しているのか。獣のように本能を剥き出しにして、彼女の全てを奪ってしまいたいと思っていることも、彼女はなにひとつ知らない。僕がどれだけ嘆きの声を上げたって、いつも彼女は他の男のところへ行ってしまうのだから。


「ひっ……うっ、うぅ……」
「こんなに泣いて。目が真っ赤ですよ。可哀想に」
「やだ、……あずくん、これ……なに……やだ、こわい……やだ……」
「ああ、そろそろ効いてきましたかね。大丈夫。全部、全部忘れるだけですから」

間違ったのならやり直せばいい。最初から。

「あなたはずっと僕のものだ」

見下ろした彼女は目を閉じてぐったりしている。そのまま意識を失って、次に目覚めた時には全部、何もかも忘れているだろう。
ぼたぼたと溢れる涙が彼女の顔に落ちていく。彼女の涙と混ざって、彼女の頬や首を濡らしていく。彼女の記憶を奪うのは、もうこれで最後にしたいと思いながら、彼女の隣に寝転ぶ。汗ばんだ彼女の額に張り付いた前髪を払って、どうか次は幸せであるようにと願った。

(2021.04.04/星を巡るこども)

「あれ、見せて」

ベッドに腰掛けたフィガロ様にそう言われて、肩が跳ねた。フィガロ様のために持って来たリキュールの瓶やグラスを抱えたまま、私は何も言えず、ただこちらをじっと見つめるフィガロ様を見つめ返すことしか出来なかった。
?」と優しく微笑まれて、それが昨晩の微笑みと同じで、私はフィガロ様のその顔があまり好きではなかった。心も、身体も、フィガロ様に支配されているみたいで。嫌だと断ることだって出来る。命令ではないし、命令だったとしても、フィガロ様のそれを聞くも聞かないも自由なのだから。
抱えていたものをサイドテーブルに置いて、ブラウスのボタンに手を掛けると、フィガロ様が「脱がせてあげようか?」と言った。私はそれに首を横に振って、ボタンを一つずつ外していく。全部外したのを見たフィガロ様が「おいで」とベッドへ手招く。

「昨日の綺麗に残ってるね」

右胸の下、昨晩の情事の最中にフィガロ様に噛まれた傷。フィガロ様がそれを撫でながら微笑んだ。フィガロ様はそうやって私に傷を付けるのが好きなのか、情事の最中に胸や首を噛んでくる。歯を立てられて、肉の裂ける音が聞こえて、血が滲んでいく感覚を、もう何度も味わった。

「……フィガロ様、あの」
「なに?」
「傷を残すのは止めてくださいって……」
「お酒、入れてくれる?」

私の言葉に重ねるようにそう言ったフィガロ様が、サイドテーブルに置いた瓶を指した。私はベッドの端に移動して、フィガロ様が好むようにリキュールとソーダを混ぜる。グラスを差し出せば、フィガロ様は「飲ませてくれる?」と、私の腕をそっと引いて、私をフィガロ様の膝にのせた。
命令ではないし、命令だったとしても、それを聞くも聞かないも自由だ。私は人間だから、私を従えさせるなんてフィガロ様には容易いことだけれど、フィガロ様は私を従えさせようとしたことは一度だって無い。
私はフィガロ様に何かを問われると、いつも何も言えずにいる。けれど、沈黙は肯定だ。同時に、本心でもある。私はグラスの中身を口に含んで、そっとフィガロ様に口付けた。

「ん、んっ」
「……、の入れてくれるお酒が一番美味しいよ」
「あの、フィガロ様」
「なに?」
「傷を残すのは、」

半分以上中身の残ったグラスが絨毯の上を転がった。ゴトンと音がして、割れなくて良かったと頭の片隅で考える。フィガロ様が、一昨年の私の誕生日にくれたものだから。
私を柔らかなシーツの上に沈ませたフィガロ様の手が、瞼に触れる。

の目、好きだよ。透き通ってて、穢れなんて知らないって色をしてる」

フィガロ様の爪が、ゆっくりと、優しくアイラインを滑っていく。く、とほんの少しだけ力が入って、眼球のすぐ上の皮膚が沈む感覚。

「この目、貰っちゃおうかな」

そう言って微笑んだフィガロ様に、私の睫毛がふるりと震えた。ぎゅうっと閉じた目からフィガロ様の指が離れていく。「なんてね、冗談だよ」と私から退いたフィガロ様は、私の身体を抱き起こして、先程と同じようにフィガロ様の膝にのせた。

「でも、次同じことを言ったら、本当に貰っちゃうよ」

フィガロ様が私に傷を残すのは、独占欲だろうか。執着だろうか。それとも、愛だろうか。私はその全てだったら良いのにと思いながら、フィガロ様が「いいね?」と問いかけるのに、何も言えずにいる。

(2020.12.20/臆病者たちの沈黙)

「よう、調子はどうだ?」

ガサガサと紙袋の音がしたかと思えば、そんな声と共に紙袋を押しつけられる。私は袋を受け取りながら「大丈夫、変わりないよ」と返した。袋を受け取るときに、カインの指先が私の手に触れて、少しだけドキリとしてしまった。袋の中身を触れば、果物や野菜など食材で、私が頼んだものをきちんと買ってきてくれたことが分かる。
「変わりないのか……」と落胆を含んだ声に、「あ、違う違う、そういう意味じゃなくて」と慌てて返した。

「言葉の綾っていうか、気分はいつも通り良いし、体調も平気。目も回復していってるって」
「そっか。あ、これも受け取ってくれ」

四角い箱のようなものを手の平に乗せられて、なんだろうと思っていれば、カインは「チョコレート」と。

「? 頼んでないよ?」
「これは俺からのプレゼントだ。 、好きだったよな? チョコ」
「好きだけど……。この間もクッキーくれたでしょ? いいのに、気を遣わなくて」

そう言えば、カインは「あー……」と声を発した。カインがどんな顔をしているかはわからないけれど、きっと私から目を逸らして、頬を掻きながら眉を下げているのだろうと想像する。「いや、 がそうなったのは俺のせいだから」と言うのも、想像通りだ。
目が見えなくなってもう一月は経った。詳細は知らないけれど、道端でカインと揉めていた魔法使いがカインに呪いをかけようとして、私がそれを咄嗟に庇った。視力を奪う呪いだった。力の弱い魔法使いだったから、その呪いも弱いもので、目は自然に回復するらしい。それまでの間、カインが私の目になると言うのでこうして買い物を頼んでいる。

「それに、目のことがなくても、俺が に贈りたかったんだよ」

が好きそうなやつだから」と言われて、自分の頬が熱を帯びていくのがわかる。赤い頬を隠したくて、両手で顔を覆えば、カインは「どうした? やっぱり調子悪いのか?」と不安そうな声で訊いてくる。カインは本当に、心の底からそう思って私にプレゼントしてくれて、心の底から私を心配してくれているのだと気付くこの瞬間が、嫌いだった。私はカインの言葉に首を横に振りながら、自分の醜さに嫌気が差していた。
ねえ、カイン。本当はもう目は見えていて、あなたの助けは必要ないって言ったらどんな顔をするかしら。怒る? 軽蔑する? それとも良かったなって笑ってくれる? カインは優しいからきっと笑ってくれるだろうけど、私は優しさなんかより、カイン自身が欲しい。優しくなくてもいいから、ずっと傍にいてほしい。私はカインに、まるで麻薬みたいに依存している。

(2021.01.23/dependent)

兄とは三つほど歳が離れていた。優しくて頭も良くて何でも出来る兄は完璧だった。けれど私は兄があまり好きではなかった。
兄が「」と優しい声で私を呼ぶ。私の頭を撫でて、可愛いねと、僕はお前が大好きだよと囁いた。

「……最悪」

窓から差し込む光を眩しく思いながら身体を起こした。昨晩カーテンを閉め忘れた自分が恨めしい。もう少し寝ていたかった気持ちと、夢から覚めて安心した気持ちが半々だった。
今日は何も予定が無いし、もう一眠りしようか考えていたところに「おはようございます」とジェイドが顔を出した。そうだ。そういえば、この近くの山に行くから泊めてくれと頼まれ、宿として貸していたのだった。学園に外泊届けを出してまでうちに泊まって行くのだから、余程その山に興味があるのだろう。

「随分と良い夢を見たようですね」
「そう見えるのなら、今すぐ出て行って」
「今日のご予定は?」
「……会話する気ある?」

ベッドに腰掛けたジェイドが「勿論」と笑った。それから「紅茶飲みます?」と訊くジェイドに、首を横に振った。

「またお兄様の夢ですか?」

楽しそうな顔で聞いてくるのが不愉快で堪らなかった。けれど私にはジェイドを拒絶する権利がない。私は頷いた。
兄は優しくて、頭も良くて、私を可愛がってくれた。私は兄とは反対で、あまり勉強が出来なくて、魔法もろくに使えなかった。両親の希望で兄と同じ、共学の魔法士養成学校に通っていたけれど、卒業するまで成績が良くなることはなかった。両親はそれをはっきりとは咎めなかったけれど、兄妹でどうしてこんなに違うのかと言っていたのを憶えている。もう少し兄のようになってくれたらと言っていたことも。
兄が死んだのは私が学校を卒業して間もなくだった。兄が私を卒業祝いだと言って、家からずっと離れた海へ連れて来た。兄は、崖で足を滑らせて海へ落ちた。助けようと思えば助けられた。でも私は何も出来なかった。助けを呼ぶことも、魔法を使うことも、何も。いや、何もしなかった。ずっと兄が羨ましかったから。兄さえいなければ、と願う日々が少なくなかったから。私は兄を見殺しにした。

「あれは事故だったでしょう」

私が兄を見殺しにしたのを、まだ幼かったジェイドに見られたのだ。それからどうやって私を特定したのかは知らないけれど、昨年のホリデー期間中に突然うちを訪ねて来た。あの日のことを仔細に語られて、その場に崩れ落ちた私を見下ろして笑っていた顔を、今でも鮮明に憶えている。

さんはお兄様が嫌いでしたし、良かったじゃありませんか。もう忘れたらどうです?」

俯いた私の顔を覗き込んだジェイドは、尚も楽しそうにしている。「いえ、さんはお兄様のことが好きですから、忘れられませんよね」と続けた。その声は、本当に、ほんの少しだけ寂しそうだった。この男に限って、そんなはずはないと俯いた顔を上げようとしたけれど、それより先にジェイドに抱き締められる。優しく、壊れ物を扱うかのように抱き締めるのは、兄に似ていた。
ジェイドの言う通りだった。兄のことは嫌いだけど好きだし、忘れたいけど忘れたくない。矛盾した私の感情を理解しているのは、ジェイドだけだった。

「僕をお兄様の代わりにしたって良いんですよ」

私よりずっと年下の子供のくせに何を言ってるのだと返そうかと思ったけれど、ジェイドの声があまりにも寂しそうだったから、口を噤むしかなかった。

(2021.01.11/記憶)

謎世界線のマフィアパロだけどマフィア要素は薄い

朝起きたら兄がいなかった。私たちは幼い頃に両親を亡くしてから親戚の家を転々とし、兄が十八歳になった頃からは二人だけで暮らしていた。今日は私の二十歳の誕生日だ。盛大にお祝いしようと昨日のうちに兄があれこれ用意してくれた、華やかに飾られたリビングは静かだった。私に何も言わずに出掛けるなんて珍しいなと思いながら、何か急ぎの用事でもあったのかもしれないと、兄が帰るまでに誕生日会の料理を作ろうとキッチンへ向かった。自分の誕生日の料理を自分で作るなんて、と思わないわけじゃないけれど、兄は料理が苦手だから、料理はいつも私の担当だった。
決して裕福とは言えない暮らしで、普段あまり贅沢が出来ない分、互いの誕生日は奮発しようと、今回も少しばかり良いお肉を買った。どうやって調理しようか考えているところに、来客を知らせる音が聞こえた。
兄が帰って来たのかもと玄関の扉を開ければ、そこに居たのは知らない男の人だった。その人は私を見て、「あれ? ここヘンリーの家じゃなかった?」と瞳を数回瞬かせた。ヘンリーは兄の名だ。兄の知り合いだろうか。兄からは客人が訪ねてくるなど、何も聞かされていない。

「そうですけど……」
「きみは?」
「あなたこそ、どちら様ですか?」

じっと品定めするような目で見てくるのが気に食わなかった。思わずそう言い返せば、彼は少しだけ目を細めて「ふぅん」と呟いた。

「俺はムル。きみはヘンリーの妹かな」

「そういえば前にヘンリーが言ってたよ。とても可愛い妹がいるんだって」とムルと名乗った男は、無遠慮に上がり込んできた。私が「ちょっと!」と静止する声も聞かず、リビングの方へ進んでいく。急いで後を追えば、リビングの様子を見た彼が「お誕生日おめでとう!」と楽しそうに笑った。

「で、ヘンリーはどこ?」
「兄は出掛けているみたいで、今はいません。私も何も聞いていないのでいつ帰るかも知りません」
「本当に?」

ソファの真ん中を陣取って足を組んだ彼が、さっきと同じようにじっと私を見つめた。不躾なその視線が不愉快で、でも今はそんなことを気にしている場合でもなくて「本当です」と返した。

「可愛い可愛い妹の誕生日に、急に出掛けるかな? それも、きみに何も言わずに」
「……何か急ぎの用事があったんだと思います」
「書き置きやメッセージも残さずに? 書き置きが無理でも、移動中とか、少し手が開いたとき一言メッセージを入れるくらいなら出来ると思わない?」
「何が言いたんですか?」
「ヘンリーは随分ときみを可愛がっていたね。きみ、ヘンリーに拒絶されたことないでしょ」

彼の言う通り、兄は私を随分と可愛がってくれた。兄妹二人だけで生きてこなければならなかったから、互いが大切な存在になるのは当然のことだと思う。

「きみが学校に通いたいと言ったときも、ヘンリーはいいよって言ってくれたでしょ?」

決して裕福な暮らしじゃなかった。出来る限り贅沢は控えて、我儘も言わないようにしていた。でも、私は学校へ行きたいと我儘を言ってしまったことがある。すぐに何でもない、忘れてくれと言ったけど、兄はいいよと言ってくれた。でも、どうしてそれを彼が知っているのだろう。

「……あの、兄とはどういうご関係ですか?」

テーブルに置いたままの、飾り付けに使うまだ膨らませていない風船を彼が手に取った。それからそれを膨らませて、猫の形になったそれをぽんぽんと手の平で叩く。

「きみが学校へ行くお金を貸したのは俺だよ」

「これおもしろーい」と彼が二つ目の風船を膨らませた。風船を初めて見たかのようにはしゃいでいる。
兄は私に何でも話してくれていたと思う。仲だって良かった。兄を困らせないようにしてきたつもりだった。学校へ行くお金だって、兄が貯金を崩してくれたもので、誰かに借りたなんてそんな話、一度も聞いたことない。

「返済期限は昨日だったんだけど、ヘンリーは逃げちゃったね」

二つ目の風船はハートの形をしていた。
彼はポケットから一枚の紙を出して、テーブルに置いた。それはどう見ても借用書で、兄の名前が書いてあった。間違いなく兄の筆跡だ。
「逃げたって……?」と狼狽える私に、彼は両手で二つの風船を弄びながら微笑んだ。

「逃げた、言葉の通りだよ。返せないから、逃げた。俺からお金を借りたまま」

借用書の貸主の欄を見ればムル・ハートと書かれていた。その下に書かれた「ムーン商会」の名前に、それがこの辺りでは有名なマフィアのものだと思い出す。一見そうとはわからない名前で、いつか兄があの会社は良い噂を聞かないから近付くなと言っていた。ムルという名前の男がボスだとも言っていた。どうして知っているのだろうとそのときは不思議だったけれど、知っていて当たり前だ。兄はムーン商会のボス、ムル・ハートからお金を借りたのだから。けれどそれが私の為だと知ってしまった今、兄を責める気にはなれなかった。

「借りたものは返さなきゃ」

「ねえ?」と彼が、私に同意を求めるように笑いかけた。さっきまで遊んでいた風船は二つとも床に散らかっている。
今日は私の二十歳の誕生日だ。豪勢に飾られた部屋に、マフィアのボスがいる。部屋は私を祝福してくれているのに、そこに居座る人物は全く祝福できたものではなかった。矛盾している光景に、眩暈がした。

(2021.01.11/祝福)