フィガロという男が嫌いだった。……いいや。これは嫌い、なんて単純な言葉で言い表せる感情ではない。こうして思わぬ形で再会した今でさえ、あの情景を夢に見る夜がある。
師と仰いでいた日々のこと、決定的な夜のこと、その後僕の身の上に起こったこと、今再び同じ釜で飯を食っていること。それらすべてを、あの男がどう思っているかは知らない。僕には計り知ることができなかったから、道を違えたのだ。
革命軍から離れた後のあの男は、それなりに幸せに生きているようだった。南の国の兄弟からの慕われようを見ていれば自ずとわかる。身の上を偽り、過去の自分を綺麗な布で覆い隠して得た信頼など虚構に過ぎないと初めのうちは思っていたが、だんだんとその絆の太さに嫌でも気が付いた。ルチルもミチルも、強い魔法使いではないが馬鹿ではない。すべてを正直に洗いざらい話しても、彼らは離れていかないだろう。僅かな期間彼らを見ていた僕でも、それはわかった。
しかしながらあの男は、決して打ち明けることはしないだろう。信じてほしくてたまらないくせに、誰も信じることのできない男だ。その頑なさがいずれ、今まわりにいる人を遠ざけるとわかっていても、曲げられないのだろう。あの男と距離を置き、離れた場所から客観的に見れるようになった今だからわかる。フィガロという男は、どんなに人に囲まれていても孤独の塔を崩すことができない魔法使いだった。
「というわけだから、明日一日留守にするね」
賢者へ用があり、談話室へ足を踏み入れようとしたタイミングで、あの男のそんな言葉が聞こえてきた。盗み聞きをしようとしたつもりはない。開け放たれた談話室で行われている会話だから、隠すものでもないのだろう。
「はい、こちらのことは気にしないでください」
扉を背にして立つ賢者は、僕に気付いていないようだった。彼女の向かいに立つあの男は、もちろんこちらに気付いている。「よろしくね」と彼女の肩を叩き、「ファウストが用があるみたいだよ」と付け加えてこちらへやってくる。帽子のつばで視線を遮っていたため、男の表情はわからなかった。あの男が近くにいると、いまだに背筋が伸びる自分が嫌だった。
「ファウスト、どうしました?」
フィガロが部屋から出ていくのを見送って、賢者が僕に声をかける。出鼻を挫かれてしまったが、ここへ来た本来の目的を思い出し、彼女のそばへ近寄った。
「この間、中央の国の貴族から依頼が来ていただろう?」
「はい。確か、屋敷の中で物が頻繁になくなるから調べてほしい、とか」
そう。わざわざ賢者の魔法使いが調査する依頼としては取るに足らない内容だった。だが、暇を持て余したシノを静かにさせるにはこれくらいがちょうどよい。その貴族の家は魔法舎からさほど離れておらず、遠出をする必要もない。凶悪な魔物を倒すことも目立つ大捕物も必要なさそうだが、たまの息抜きにはなるだろう。座学は飽きた。訓練も代わり映えがなくつまらない。もっとたくさん成果を上げたい。近頃同じ台詞ばかり繰り返し、てんで授業に身が入らなくなってしまった勇敢な森番も、これで少しは納得してくれるといいが。
わけを話し、東の国の魔法使いで件の依頼を引き受けたいと頼むと、賢者は喜んで了承した。ひっきりなしに舞い込む仕事をひとつ減らせるのだ。賢者としても嬉しいのだろう。大した内容でもないから賢者の動向は必要ないと伝えると、彼女はわかりましたと頷いたあと、ふと神妙な顔をした。彼女の気配りはとても細やかだ。
「ファウストとネロがいるから心配いらないとは思いますが、油断はしないでくださいね」
「ああ。子供たちにもよく言い聞かせておくよ」
シノがすでに我慢の限界なので、明日にでも出かける予定だった。そこで不意に、先ほどのフィガロの声が蘇る。あの男も明日、出かけるようなことを言っていた。依頼を引き受けた風ではなく、どちらかというと私用の外出のようだった。仕事でないのなら、僕には関係がない。”南の国の魔法使いのフィガロ”なら、好き勝手に動き回ることもないだろうし、現にきちんと賢者の了解を得ている。僕が気を揉む必要もないだろうし、私的なことなら詮索するのも悪いだろう。そう結論付け、僕は開きかけた口を閉じて踵を返した。
「なんだ。大したことなかったな」
その屋敷で頻繁に物が無くなる原因は、大いなる厄災の影響で巨大化したクマネズミが、夜な夜な家の物を巣穴に運び込んでいただけのことだった。子牛ほどの大きさのクマネズミは凶暴性も増していたが、ミノタウロスと対峙したことのあるシノの敵ではない。鎌を一凪すれば、力量差を理解したネズミたちはたちまち去っていった。
依頼があった貴族の家には、老夫婦と一人息子が住んでいた。魔法使いに偏見はなく、家の問題を解決してくれたお礼にと夕食に招いてさえくれた。初め、その申し出は断るつもりだったのだが、シノとヒースクリフが一人息子と仲良くなったこともあり、折角なのでお言葉に甘えることにした。
「すごいやシノ! あんな大きなネズミを追い払っちゃうなんて!」
一人息子は、特にシノに大層懐いた。シノは得意げな表情を隠そうともせずに胸を張った。
食事の後そのまま暇する予定だったが、老夫婦がぜひ子供の話し相手になってほしいというものだから、それくらいならばと少しだけ長居をすることにした。歳の近い人間の子供と仲良くなれる機会は、賢者の魔法使いにはあまりない。まだ若いシノとヒースクリフが、少しでも年相応に邪気をなくし、人と関わってくれたらいいと思った。
「あれくらい、大したことじゃない」
「ヒースクリフの魔法もすごかったね! 僕、こんなに近くで魔法を見たの初めて!」
少年の言葉は大袈裟に飾り立てられているわけでもなく、ありのまま、思ったことだけが並べられていた。高揚した頬が、演技ではないことを物語っている。少年は正しく素直だった。二人がいたずらに傷つけられる心配など、この屋敷では不要だったことに僕ら大人はようやく気付き、そして少しだけ恥じた。
「そんな……、俺よりすごい人はたくさんいるよ」
ヒースクリフは目を逸らして謙遜したが、ただ照れているだけのようだった。彼はきっと、魔法使いであること、魔法を使うことを身内以外の人間にこうも手放しで賞賛されたことがないのだろう。東の国で生まれ育ったのだから余計だ。
「でも魔法が使えない僕からしたら、十分すごいよ」
少年は目を細めた。ここまで魔法使いを恐れない人間も珍しい。南の国のように魔法使いと人間が共存している場所なら別だが、少年は魔法使いを見るのも初めてだと言っていた。中心街からやや外れた閑静な住宅街にぽつりと建つ、大きくて厳かなこの屋敷の中で、少年は大切に育てられていた。
「いいなぁ、僕も魔法が使えたらなあ」
「言うほどいいもんでもないぞ」
ネロがぽつりと零す。魔法は万能ではない。魔法使いは人間には忌み嫌われることが多いし、呆れるほど長い時間を生き続けなければならない。魔法科学の研究が進んだ今では、魔法使いを殺しマナ石にして利用しようと考える人間もいる。東の国で料理屋を開いていたネロなら尚更、孤独と共に生きている時間が多かっただろう。魔法なんてなくても十分生きていけるのだから、ないほうがいい。
ネロの台詞に、少年は目を伏せた。言い訳のように落とされた言葉は、先ほどよりいくらか縮こまっていた。
「でも、僕が魔法使いだったら、僕はこの家に置いていかれなかったかもしれない」
「どういうことだ?」
「……この家のお父さんとお母さんは、僕の本当の両親じゃないんだ。本当のお父さんは魔法使いで、僕が小さいときこの家に来て、僕を置いていったんだって」
首を傾げたシノに、少年は節目がちなまま答えた。息を呑み、言葉をなくした僕らをよそに、少年は言葉を重ねる。
「今の両親はすごく優しいし、育ててくれたことは感謝してる。でもたまに思うんだ。本当の両親はどうして僕を置いていったんだろう。僕が魔法使いだったら、今頃僕はここにいないのかなって」
魔法にはしゃいでいた先程までの声音とは違う、暗く、沈み込んだ声だった。見た限り、彼の今の両親は彼をとても愛している。どういった経緯で彼を育てることになったのかはわからないが、本当の両親と何ら変わりない愛情を、少年に注いでいるように感じた。少年もそれに対し不満は無いのだろう。けれども、本当の両親が別にいて、しかもなかば捨てる形で自分をここへ置いていったのだとわかれば、そちらのほうが気になってしまうのも当然だ。
僕とネロ、ヒースクリフは、少年へかける言葉を探し出せないでいた。そんなときに沈黙を破るのは、いつだって一人しかいない。
「俺も孤児だ」
シノの言葉に少年は顔を上げた。少年とは反対に、シノには悲観に暮れている様子はまったくなかった。事実をただ淡々と述べている。そこには喜怒哀楽など込められていないが、不思議と地をしっかりと踏みしめた強さがあった。
「俺は両親が人間だったか、魔法使いだったかも知らない。俺が魔法使いだったから捨てられたのか、何か別の理由があったのかもわからない」
「両親を恨んだり、探そうと思ったことはないの?」
「ない」
シノの声にはいつだって迷いがない。曲げられない自分の芯を持っているからこそ、躊躇わず音にすることができるのだろう。
「ブランシェット家で雇われて、旦那様や奥様、ヒースクリフに会えた。今はこうして、賢者の魔法使いとして手柄を立てる機会だってある。親に捨てられたおかげで今がある、なんて美談にするつもりはないが、かといって恨んでやろうとも思ってない」
意思の強い紅の瞳は、前だけを見て輝いていた。
「俺は自分で自分の生き方を選ぶ。生まれや出自なんかに決めさせない」
灰色を砕いたヘーゼルナッツの瞳は、じっとシノをみつめていた。底の見えない哀惜の念が、薄らと晴れていく。
「お前が、お前の人生に必要だと思うなら本当の親を探せばいい。そのときは俺も手伝ってやる」
「……ありがとう」
少年はその瞳をゆっくり閉じた。癖のある藍色の髪が小刻みに揺れる。「よく考えてみるよ」その声には少しだけ、光が差しているようだった。
彼はきっと今後も悩むのかもしれない。それでもそのたびに、今日のシノの言葉を思い出すのだろう。活発でやや無鉄砲だが、聡明な子だ。変えられない過去ばかり気にして瞳を曇らせずとも、前を向けば幸福が待ち受けていることにすぐ気付くはずだ。
気付けば僕は、彼に向かって呪文を唱えていた。
屋敷を出てすぐ、見知った気配が近くにあることに気付いた。なぜここにあいつが。眉間に皺を寄せ立ち止まると、ヒースクリフがこちらを振り返る。
「ファウスト先生、どうされました?」
僕が気付いていることに向こうも気付いているだろうに、一向に姿は現さない。ということは、触れられたくないのだろう。用がないのならばこちらから話しかける必要もない。
「……いや、何でもない」
ヒースクリフにそう返し、僕は帽子を深く被り直した。
その晩、僕の部屋にあの男が訪ねてきた。
ある程度予想はしていた。こちらから訪ねるつもりはなかったし、どうせ向こうから何かしらアクションを起こしてくるだろうと思っていた。あのとき気配を隠さなかったということは、感付かれても構わなかったということだ。
部屋をノックした男は、僕が部屋にいることに確実に気付いていた。居留守をしても無理矢理こじ開けるような真似はしないだろうが、昼間の件だろうと検討がついていたから扉を開けることにした。
「何の用だ」
「たまには一緒に呑みたいなと思ってね」
「シャイロックのバーにでも行けばいいだろう」
「君あそこへは滅多に来ないだろう?」
上等なワインを片手に立っているフィガロは、いつもと変わらず軽薄そうだった。ワインに免じて部屋に招き入れる。常であれば、こうすんなり部屋へあげることはない。男もそれに気付いているはずだ。椅子とテーブルを出すと、フィガロはチーズとナッツをテーブルに並べた。至れり尽せりだ。ただ楽しく晩酌をするつもりでないことは明白だった。
椅子へ腰掛け、ワイングラスに赤い液体を注ぎ、軽やかな音を鳴らす。一口口をつけ、黙って目の前の男を見ていると、フィガロは観念したように口を開いた。
「もう、せっかちだなぁ。もう少しワインの味を楽しもうよ」
「ふん。そんなつもりで来たわけではないだろう」
眉根を下げて笑っていた男の瞳は、不意に真剣みを帯びた。
「あの子に祝福のまじないをかけてくれてありがとう」
「別に、お前に礼を言われる筋合いはない」
少なくともあのときはまだ、この男と少年との関係に気付いてはいなかった。純粋に彼のことを好ましく思ったから、彼の行く手に幸多からんことを願った。それだけの話だ。
「母親は?」
「あの子を産んで1年後くらいに死んだよ。流行り病であっさりとね」
「……人間だったのか」
フィガロは何も言わず目を伏せた。あの子と同じ色を持った睫毛が目につく。
彼の母親が人間だったなら辻褄が合う。魔法使い同士の子供に魔力が受け継がれない可能性は極めて低い。フィガロほどの強い魔法使いなら尚更だ。
「最期を過ごしたのは南の国だったから、ルチルはなんとなく覚えてるんじゃないかな。ミチルはまだチレッタのお腹の中だったから知らないだろうけど」
薄暗い部屋の中で、男の顔の陰影はくっきりと浮かび上がって見えた。
「彼女の命日には必ず墓参りへ行くんだ。南の国ののどかな花畑の下に、
は眠ってる。北の国の土の中は冷たそうだからやめたんだ」
フィガロはワイングラスをぐいと煽った。宙に浮いたボトルが、空いたグラスにワインを満たす。
「それで帰りにあの屋敷へ寄って、あの子の様子をみる。毎年の日課さ」
「どうしてあの子を捨てた」
「捨てたわけじゃない。人間なら人間の両親のもとで暮らした方が幸せだろう? 預け先だって厳選したんだ。あの家は古くからある由緒正しい貴族の家系だし、汚職やきな臭い噂もない」
真正面に座っているにも関わらず、男と目が合うことはなかった。壁にかけてある小さな鏡が、男のはねた後ろ髪を映している。
「あの子、いい子だったろう?
に性格がよく似てるよ」
「なら……、いや」
なぜ手放した、という問いはすんでのところで飲み込んだ。生半可な好奇心で首を突っ込んでよい話題ではないことには、随分と前から気付いていた。
今の今まで半信半疑だった。相変わらず、絶対的な力で軽率なことをする男だと軽蔑さえしていた。しかしながら驚くべきことに、僕の予想に反しこの男は、あの少年の母親を十二分なほどに愛していたらしい。
それでも子供を捨てたのは、子供はあくまで子であり、彼女自身ではなかったからなのだろう。いくら血が繋がっていようが姿形が似ていようが、偽物では意味がない。この男の考えていることなんて到底理解しがたく、すべて憶測の域を出ないが、そして男はおそらく恐怖したのだ。大切なものを失くすことを。彼女と同じかそれ以上に大切なものを持ってしまうことを。
男を愛し、愛されたただ一人が、男を永遠にひとりにする。誰も入り込む余地のない、完成された執着だ。男は今、孤独の塔のてっぺんに住んでいる。それが幸か不幸かなんて、これこそ僕の決めてよいことではなかった。
男はその後、ワインをもう一杯飲み干した後、残りは全部呑んでいいよと言い残し部屋を去っていった。勝手なものだ。話したいことだけぺらぺら話して満足したらしい。今日は命日だというし、彼女との思い出話をしたかったのかもしれない。
一人になった部屋で、僕は締め切ったカーテンを開けた。恐ろしく美しい脅威が、今夜も変わらぬ姿で僕らを見下ろしている
##貴方の亡霊ひとつきり##
title by
徒野 様