恋か、と聞かれたらきっと「違う」と答えるだろう。

陸に上がって早二年、足の数が減ったことに不便を感じるときもあるが、人間の身体には大分慣れた。海と陸では価値観や倫理観が異なることも学んだし、陸には海にないものがたくさんあることを知った。陸に憧れる人魚は少なくない。けれど陸と海では生活様式がまるで違う。陸に上がる人魚は、相応の覚悟を強いられる。一度上がったものの、耐えられず海に戻ってくる人魚だっている。
彼女も僕と同じ、陸に上がった人魚だ。女学校に通う彼女から、休日に時間を取れないかと言われたのは先週だった。彼女の指定してきた休日───つまり今日は、モストロ・ラウンジの一般開放日で、ならぜひモストロ・ラウンジにと招待状を送ったのだ。彼女は招待状を片手に来店した。来店した彼女は暗い顔をしていて、話を聞くべくVIPルームへ案内したのだ。陸での生活に耐えられないから海に帰る、きっとそういう話だろうと思ったのだ。けれど彼女が部屋に入って早々口にしたのは「私、二度と人魚に戻れないの」だった。

「……あなた、自分が何を言ってるかわかっているんですか」

強い口調でそう言えば、彼女は俯いたまま「わかってる」と膝の上の拳を握り込んだ。そんなに強く握ったら、スカートが皺になってしまうのに。そんなことを頭の片隅で考える僕に、「わかってるよ」と彼女は繰り返した。

「でも、私、もう海には帰れないの」

ぼろぼろと彼女の瞳から涙が溢れる。陸では真珠を人魚の涙と呼ぶと聞いたことがあったけれど、あれは本当だ。人魚は涙が真珠に変わる。けれど彼女のそれは、ただの液体で、彼女の手を濡らすだけだった。それを見て、本当に人間になってしまったのだと実感する。自分とは、違う種族に、なってしまったのだ。

「なんで、どうやって……」
「永遠に人間でいられる薬を、作ったの」

薬の調合が苦手な彼女が、奇跡的にごく少量だけれど成功したのだと話す。ずっと人間になりたかったのだと。もう人魚には、海の底には戻りたくないのだと、彼女が顔を上げる。その濡れた瞳から真珠がこぼれ落ちたら、どんなに美しいだろうか。

「そんなに海は嫌ですか」

海にないものが、ここにはたくさんある。海では知り得なかったことも、学べないことも、たくさん。けれど僕は一生を陸で終える気はない。陸は確かに魅力的だけれど、生涯を過ごすかと言われたら、答えは否だ。いずれは海に戻って、最期は生まれ育った海で終えたい。そのときは彼女も一緒なら、と考えたこともあった。けれど彼女は違うのだ。

「……海も好きだよ。故郷だもの。でも、私、海では手に入らないものを知ってしまったの」
「なんですか、それ」
「人間に、恋をしたの」

「あの人と同じになりたい」、彼女が消え入りそうな声で言った。「僕と、」僕と同じでは、嫌だったんですか。言葉にしそうになったのを、寸でのところで抑えた。その恋の相手は、僕じゃだめなんですか。
海と陸では価値観も倫理観も違う。僕も彼女も、陸に上がってまだ数年だ。いくら彼女が永遠に人間になったとはいえ、人間との恋なんてうまくいくはずがない。変わったのは身体だけで、感情までは変わらない。けれど彼女は、感情で身体を変えてしまった。

「今日はそれを伝えに来ただけだから」

彼女がそう言って立ち上がる。引き止めたいのに、うまく言葉が出ない。何も言わない僕に、彼女は「アズールも恋をしたらきっとわかるよ」と切なそうに笑った。何も言えず、ただ彼女の背中を見送って、ソファに倒れ込んだ。彼女に対する僕の気持ちが、恋かと聞かれたら、きっと「違う」と答えるだろう。恋なんかじゃない。もっと、ドス黒くで、ドロドロした、愛だ。僕は彼女を愛している。

人魚はかえらない