時間がなかった。
沈んでいく夕日を眩しく思いながら、わたしは魔法舎へ向かっていた。
月が昇るとムルはそればかりに夢中になって、あまり相手をしてくれなくなる。そうするとシャイロックが構ってくるから、それが鬱陶しくて仕方ない。以前それを見た誰かに「三人とも仲が良いね」と言われたことがあったけれど、シャイロックと仲良しだなんて冗談じゃない。
いつか三人で海に行ったことがあった。ムルの魂が砕けて、シャイロックがムルの面倒を見始めて少し経った頃。まだムルは今より喋るのが上手くなくて、本能の部分が強かった。わたしはムルの手を引いて一緒に歩いた。生温い波がわたしたちの足を包んだとき、ムルは驚いて跳び上がっていた。猫みたいだと、わたしはおかしくて笑った。シャイロックも笑っていた。いつもの微笑みではなくて、腹の底から楽しそうに笑っていたのだ。
眼下に広がるオレンジ色の海を見て思い知る。もうあの日には戻れないのだと。
「……神様、どうか、どうかお願いですから、ムルを連れて行ったりしないで」
目を刺す夕日に、どこにもいなければ信じてもいない神に、わたしはそっと祈りを捧げた。
***
「、こんにちは」
魔法舎に着けば、わたしに気付いた賢者様が声をかけてくれた。わたしが来るのが見えたらしい。わたしも挨拶を返せば、賢者様は「すみません。これから出なきゃいけなくて……。ムルとシャイロックは中にいますから」と足早に去って行った。
賢者様が走り去った先にフィガロ先生が見えたから、きっと一緒に出かけるのだろう。わたしに気付いたフィガロ先生に会釈だけして、魔法舎の中へ入る。
「お邪魔します」
「! こんにちは。俺挨拶できた! えらい?」
「ムル、こんにちは。とってもえらい。ぎゅうってしていい?」
「、どうしたの?」
ムルの指がわたしの髪を滑った。「なんだかすっごく寂しそう」とムルが笑う。髪を耳にかけられて、いつかシャイロックに触れられたのを思い出す。わたしが何も言えずにいると、ムルはわたしのイヤリングに触れた。
「俺これキラキラしてて大好き!」
わたしに触れる手の温度も、触れ方も、何もかも違うはずなのに、どこかシャイロックと似ている。シャイロックは女の扱い方も教えたのだろうか。
ムルは基本的には知性的で紳士だ。以前のムルに心を奪われた女は多くいた。
ムルは、今のムルになってから女を抱いたことがあるのだろうか。誰かに、深いところまで許したことがあるのだろうか。
「……ムル、わたしの可愛いムル。抱きしめてくれる?」
「いいよ! ぎゅー」
「ふふ、ムル、あったかいね」
この温もりがずっとわたしだけのものならいいのに。
不愉快な花の香りが鼻を掠めて、わたしはムルから腕を離した。ムルはお前のじゃないとでも言いたげなシャイロックが、煙管を片手にわたしたちを見て微笑む。
「ムル、立ち話もなんですから、お部屋にご案内しては?」
「、俺の部屋に行く? 俺は行かない!」
「もうすぐ月が昇る時間だから」とムルは外へ行ってしまった。わたしは楽しそうなムルを見送って、シャイロックを睨み付ける。
「おや、怖い。昔は私にも笑いかけて、抱きしめてくださったのに」
「憶えてない」
「嘘ばかり言わないで。本当は憶えているでしょう。あの夜、あなたを抱いた夜のことですよ」
「……、……ええ。憶えているわ。……ねえ、シャイロック」
さっきまでムルを抱きしめていた腕を、シャイロックの腕に絡ませる。愛がなくたってキスもハグも、セックスだって出来る。誰だって良かった。寂しいときは特に。それがどんなに憎んでいる男でも。
「今夜もわたしを抱いてくれる?」
***
目的のために手段を選んでいる時間なんてなかった。
シャイロックの部屋で待つように言われて、大人しくベッドに腰掛けて待っていた。不愉快な花の香りと酒の匂いが混じっている。
他の誰かに見られると面倒だから、わたしはシャイロック以外が入れないように結界を張った。オズや双子なら簡単に破ってしまうだろうけれど、「二人きりでいたいから邪魔をするな」とわかるようなものを張ったから、野暮なことはしないだろう。
棚に並べられた酒瓶を眺めていると、棚の端にある小瓶に気付いた。近付いてそれを手に取れば、その中にパープルサファイアの欠片が入っていた。これ、もしかして。
「いけない人」
背中にシャイロックの体温を感じる。シャイロックはわたしを後ろから包み込むようにして、わたしの手の中の小瓶を取り上げるとそれを棚に戻した。そのまま手を重ねられて、耳に吐息が触れる。
「家主がいないときに部屋を漁るなんて」
「欠片は全部ムルに飲ませたんじゃなかったの?」
「さて、どうでしょう」
やっぱり嘘だったのだ。シャイロックはムルに飲ませていない魂の欠片を持っている。
わたしは手を振り解いて、シャイロックと対峙するように身体の向きを変えた。
シャイロックの指がわたしの耳に触れて、プレナイトのイヤリングを撫でる。シャイロックはそれに触れるとき、いつも何を考えているのかわからなかった。
前にわたしがこれはムルに選んで貰った物だと話したとき、シャイロックは何の感情も宿さない瞳で、今みたいにそれを撫でた。
「ベッドに行きましょうか」
微笑んだシャイロックがわたしの手を取って、まるでお姫様にするみたいにエスコートする。わたしはその手を振り払った。わたしはお姫様になんてなれない。
「ムルの魂の欠片はどこにあるの?」
シャイロックはわたしの腕を掴むと、床に押し倒した。硬い床に背を打ち付けて顔を歪める。
「それを聞いてどうするんです?」
口角だけを上げたシャイロックが、わたしを見下ろしている。まずい。わたしは何とかシャイロックから逃れようと身を捩った。
魔法を使おうにも、わたしではシャイロックに敵わない。
どうにかしなければと必死に考えるわたしの耳に、シャイロックの小さい呻き声が聞こえた。シャイロックの心臓が燃えている。
シャイロックはわたしから退くと、心臓を押さえながらベッドに上半身を預けるようにして座り込んだ。
わたしは心臓が燃えているシャイロックを見て、これがシャイロックの奇妙な傷なのだと気付く。これは好機だ。まともに戦ってもシャイロックには勝てない。けれど今は違う。今しかない。わたしは呪文を唱えると、追い討ちをかけるようにシャイロックを攻撃した。
「ぐっ……ぁ……っ……」
「その状態ではわたしに勝てないでしょう?」
浅い呼吸を繰り返すシャイロックに近付いて、苦しむシャイロックを見下ろした。
「苦しい? 慰めにキスでもしてあげましょうか」
「……っ、嫌な人……」
「可哀想なシャイロック。ずっと、石になるまでその傷を抱えて、苦しみ続けるなんて」
汗で濡れているシャイロックの額を撫でて、髪に手を滑らせた。いつもシャイロックがするみたいに。「あなたはずっと可哀想」、わたしはシャイロックにそっとキスを落とした。
「ねえ、教えて。ムルの魂の欠片を、どこに隠しているの?」
「っ……、インヴィ……ベル……」
観念したのか、シャイロックが呻きながらも呪文を唱えると、棚がカタと動いた。酒瓶の後ろや本と本の間から、先程まではなかった小瓶が数個顔を覗かせる。中にはパープルサファイアが輝いていた。わたしはそれを全て手に取った。やっと、やっとわたしのもの。
結界を解いてシャイロックの部屋を後にする。部屋を出る間際、シャイロックは苦しみながらわたしに問いかけた。
「……っ……永遠って、……なん、ですか……?」