ムルの魂が砕け散ってすぐの頃だった。わたしはムルとシャイロックの様子を見るために、二人の元を訪れた。
「、申し訳ありませんが今あなたの相手をしている暇はなくて……」
疲弊しきった顔のシャイロックがそう言った。シャイロックの後ろにはけだもののような唸り声を上げて窓ガラスをガリガリ引っ搔くムルが見える。
わたしは「大変そうね」と部屋に入って鍵を掛けた。ムルに近付いていくわたしに、シャイロックは溜め息を吐いた。
「ムル、爪が傷ついてしまうわ」
「うー」
「ムル、いい子だから。こっちを見て」
「ううー!」
ムルに触れようとした手に、ムルの鋭い犬歯が刺さった。血が手首を濡らす。
「!」とわたしたちのそばに駆け寄ったシャイロックが手早く治癒魔法で治してくれた。わたしはそれにお礼を言って、もう一度ムルを見た。
噛まれたって良かった。言葉が届かなくたって良かった。石になっていない、それだけで良かったのだ。
わたしが呪文を唱えると、ムルは大人しくなってその瞳に何も映さなくなる。
「なにを……」
「幻覚を見せてるだけ。意識を奪うより、幸せな気持ちにさせたほうがいいでしょう」
「ああ。あなた、幻覚を見せるのが得意でしたね」
「……これからどうするの?」
シャイロックは「私が育てます」と微笑んだ。
シャイロックは器用だし、誰よりムルのことを知っている。
二人は大切なことでも、どうでもいい些細なことでも議論をしていたし喧嘩もしていた。喧嘩をすると二人はわたしに「どっちが悪いと思う?」なんて訊いてきて、その度に今のはムルが悪いとか、あれはシャイロックが悪いとか答えていた。大抵ムルが悪いと言うほうが多かったけれど。
わたしは仕事で各国を回っていたから、シャイロックに任せるのが最適解だろうと思ったのだ。思ったから、シャイロックに反対しなかったのに。
「俺は西の魔法使いムル! きみは? シャイロックのお友達?」
今のようになったムルを初めて見たあの日、わたしはシャイロックが嫌いになった。
***
「フィガロ先生」
「んー?」
カルテに何かを書きながらフィガロ先生が返事をする。診療所が終わってから来たけれど、先生はまだ忙しそうだった。
「ごめんなさい。忙しいですよね」
「いや、もう終わるから平気。話したいことがあるんだろ?」
その言葉の通り、フィガロ先生はカルテやファイルを棚にしまうと、わたしに目を向けた。
フィガロ先生は兄のような存在だった。まだフィガロ先生が北の国にいた頃、仕事で訪れたわたしに高度な魔法を教えてくれたのもフィガロ先生だったし、悩み事もよく聞いてくれた。わたしはフィガロ先生のように強くはなれなかったけれど、先生はわたしに出来ることをすれば良いのだと言ってくれた。
「……ムルが変わっちゃったんです……」
「〈大いなる厄災〉に近付きすぎて魂が砕けたとは聞いたけど、変わったって?」
「猫みたいになっちゃったんです」
「はは、可愛いじゃないか」
「可愛いけど! でも、前のムルにはもう会えないのかな……」
「は前のムルが好き?」
フィガロ先生が優しくわたしに問いかける。わたしは少しだけ悩んで、頷いた。
「ねえ、。変わらないものなんてないんだよ」
泣き出しそうなわたしの目尻を、フィガロ先生がそっと撫でた。「おまえは賢いんだから、わかるだろ」とフィガロ先生が続ける。ぼろぼろと涙が溢れてきて、フィガロ先生の手を濡らした。
「石にならなかっただけ良かったじゃないか」
そうだ。けだもののようなムルを見たときも、猫のようなムルを見たときも、わたしは安堵したのだ。生きている。わたしの知らないところで冷たい石になっていない。それだけで良かった。
前のムルに会えないのが嫌なんじゃない。本当は、わたしのことを忘れてしまったのが、わたしとの思い出が失くなってしまったのが悲しいだけ。だってわたしには、これから新しい思い出を作っていける時間がない。
「ねえ、先生」
「なに? 泣き虫な」
魔法使いは寿命がわかる。わたしはそれを初めて聞いたとき、本当かなと疑った。
わたしたちは人間と違う。死ぬときは石になる。冷たい石に。
今では疑った過去の自分を鼻で笑ってやりたかった。あれは本当なのだと。魔法使いは、寿命がわかる。
「師より先に逝ってしまう不孝を、どうか許してくださいね」
目尻を撫でていた手が離れて、フィガロ先生は眉を下げて笑った。「寂しいねぇ」と。フィガロ先生はきっと気付いていたのだろう。優しくて強い、寂しがりなわたしの先生。