強い雨の日だった。危ないから近付いてはいけない、と言われていた海に私は近付いた。どうして近付いたのかは今でもわからない。まるで何かに呼ばれているみたいに、私はそこへ近付いた。雨は酷かったけれど、風はそんなに強くなくて、思っていたより海はこわくなかった。なんだ、大したことないじゃないか、そんなふうに、油断していた。その油断が仇となった。私は海に落ちたのだ。落ちた、というより何かに引っ張られたというほうが正しい。私はあのとき、確かに「何か」に海に引き摺り込まれた。ここで死ぬのか……、と思ったけれど気が付いたら浜辺で寝ていた。誰かが助けてくれたのだろうか。でも、誰が……。そういえば、あのとき身に付けていたガーネットのイヤリングを片方無くしてしまった。
それを思い出したのは、友人に誘われモストロ・ラウンジにやって来たからだった。大きな水槽に目を奪われていたら、背の高い男の人が席まで案内してくれた。男の人が友人に「あなたは……以前もいらっしゃいましたね?」と問いかければ、友人は「はい。以前の一般開放日に来ました」と返す。それに笑みを浮かべた男の人は「ありがとうございます。そちらの方は……初めてでいらっしゃいますね?」と私を見る。一般開放日なんて、年に数回あるかないかなのに、客の顔を覚えているのか、と少しゾッとした。私はそれを悟られないように「はい」と返す。男の人は丁寧にこのラウンジについて説明してくれた。説明を聞き、注文を済ませ、男の人が去っていくと友人が「あの人かっこいいよねー!」とはしゃぐ。双子らしく、同じ顔の人がもう一人いるらしい。はしゃいでいる友人には申し訳なかったけれど、なんとなく、あの人はこわい、そう感じた。
食後のデザートに舌鼓を打ちながら、来て良かったなと思う。最初はあまり気乗りしなかったが、料理はどれも美味しかったし、店内の雰囲気や装飾品も細部まで凝っていて良かった。先にデザートを食べ終えた友人が「ちょっとお手洗い」と席を立ったのを見送り、私は水槽を眺めた。鮮やかな魚たちがゆうゆうと泳いでいる。あの日、溺れてからというもの、私はあまり水辺に近寄らなくなった。
「その水槽、お気に召しましたか?」
隣から聞こえた声に、身体が小さく跳ねた。あの男の人だ。「驚かせてすみません。あまり熱心に見ていたので」と笑う。
「いえ……。大きな水槽だな、と」
「そうでしょうか。海より小さいですよ」
男の人はそう言ってまた笑う。ずっと笑っているのに、何だかとても嫌な感じだった。一緒にいるのが何だか気まずくて、友人に早く戻って来て、と念じた。
「申し遅れました。僕はジェイド。ジェイド・リーチです」
帽子を取って丁寧にお辞儀をした男の人、リーチさんが言う。ここは学生が運営するカフェだと聞いた。同じ学生ならわかるけれど、外部の人間である私に自己紹介をする意味がわからない。私はこれからもここに来るかはわからないし、そんな客を相手にしたって利益はないはずだ、と。でも自己紹介されたら自分も返したほうがいいのではないか、と口を開きかけたがリーチさんの「憶えていませんか?」の声に、言葉が詰まる。どこかで会っただろうか。いや、記憶に無い。この学園に友人はいないし、誰かの写真で見かけた、というわけでもない。
「貴女が憶えていなくても、僕はずっと憶えていました」
リーチさんの目尻が下がる。慈しむような眼差しを向けられて、私は思い出す。あの日、海に溺れた日。私は助かった。誰かが、助けてくれたから。「もしかして……、あの雨の日……」、私の言葉にリーチさんがポケットから何か取り出す。「また会えたら返そうと思っていました」、それはあの日無くしたガーネットのイヤリングだった。私はそれを受け取りながら、なんて言ったらいいのかわからなくなる。言いたいことはたくさんあるはずなのに、口から出たのは「ありがとうございます」だけだった。リーチさんは「貴女が生きていて良かった」と言ってくれた。
それから程なくして友人が戻って来た。時間も時間だし帰ろうか、と言う。それに頷いてお会計を済ませた。帰り際、リーチさんに呼び止められたかと思えば、先ほど返して貰ったイヤリングを貸してくれと言われた。不思議に思いながら手渡せば、リーチさんは私の耳に触れ、それを丁寧に付けてくれた。「よくお似合いです」と笑顔のリーチさんに、隣で友人が黄色い声をあげた。けれど、そのあと耳打ちされた言葉に、私は驚いた顔でリーチさんを見つめた。
店を出てからも友人が何かを言っていたけれど、ほとんど頭に入ってこなかった。私は肩を震わせながら、友人に「ごめん」とだけ告げて走り出した。早く帰りたくてたまらなかった。外は雨が降っているというのに、私は傘も差さずに走った。
───次は絶対に引き摺り込みますからね。
いつかこの手にガーネット