初対面なのに信じらんない!
「きゅ……キュゥ、……キュイ……」
小さいけれど高い声が、何かを訴えるように鳴く。ジェイドは動物言語学の授業でも習ったことのないものだな、と学生時代を思い出した。ジェイドにとって身近な魔獣といえばグリムだけれど、尻尾と耳があること以外グリムとは違う。グリムより大きい。トレインの猫、ルチウスくらいだろうか。ジェイドは肩で傘を挟むと、そっとその魔獣を抱き上げた。「キュイ!」と一際高く鳴いた魔獣は、ジェイドの手に噛み付いた。
「っ、……元気ですね」
咄嗟のことに反応が遅れたものの、致命傷ではない。ジェイドはそのまま抱き抱え、連れて帰ることにした。ジェイドは魔獣に興味津々だった。
魔獣を風呂に入れ、ついでに自分も風呂を済ませ、濡れた髪を拭きながらジェイドは本棚からいくつか本を取り出した。逃げられたら困るので魔獣を抱えたまま。魔獣と本を手にソファに腰掛けたジェイドは、魔獣に関する図鑑の、参考になりそうなページを開いていく。数十分そうしていたけれど、膝に抱えた魔獣と同じようなものは見つからなかった。どうしたものかと悩むジェイドに、魔獣がテーブルの上にある一冊の本を指した。ぽすぽす、と獣の手が本の表紙を叩く。
「それは少女漫画というやつですよ」
男女のシルエットがキスをしている表紙。ジェイドの趣味では無いそれは、最近フロイドがジェイドの家に来たとき「小エビちゃんに借りてたの返すの忘れてた~。懐かしくね?」と言って置いて行ったものだった。卒業して随分経つがまだ返していないのか、ていうか借り物を置いていくなとジェイドはそれを手に取った。魔獣がまた表紙をぽすぽす叩く。それから、自分の口を叩いた。
「……キスしろと?」
察しの良いジェイドに、魔獣は首を縦に動かした。どんな意味があるのか知らないが、試す価値はあるかもしれないとジェイドは魔獣に口付けた。その瞬間、ボフンッと大きな音と共に、目の前の魔獣が姿を変えた。それに驚く暇もなく、魔獣はジェイドの唇を貪るようにキスをした。魔獣の舌がジェイドの口内に入り、蹂躙し、唾液を吸っていく。
「ん、っ」
「んん、……んっ、ぁ……ぷは、ごちそうさまでしたあ」
ジェイドの膝の上には、耳と尻尾の生えた裸の女がいた。
、年齢不詳。魔獣。獣姿にも人型にもなれる。ずっと使い魔として生きてきた。だというのに前の主人は契約を破棄。新しい主人を探そうにもお腹が空いて力が出ず、道で行き倒れていたところをジェイドに拾われた。のごはんは主人の体液。唾液とか血液とか。普通のごはんも食べるけど、魔力を回復させるにはそれしかない。
「あなたと契約していない僕の唾液で回復したんですか?」
「今は誰とも契約していないから、自分より強い人ならオッケー」
「へぇ……。魔獣を見るのは初めてではないですが、興味深いですね」
「拾ってくれてありがとう!ごはんくれてありがとう!」
「じゃあ、さようなら!」とジェイドの膝上から逃げ出そうとしたの足を、ジェイドの大きな手が掴む。どてん、と床に引っくり返る。ジェイドは「逃がしませんよ」と言いながら、大きすぎるジェイドのシャツを羽織ったを持ち上げて抱えた。それは獣といえど流石に女性を裸のままにさせるのはまずいかと考えたジェイドが適当に羽織らせたものだった。は「うー……」と打った鼻を余った裾で摩る。
「なんで逃げるんです?」
「……だって、あなたなんかこわい……」
獣というのは大抵本能的な部分が優れている。の頭の中では、こいつはヤバい、何かうまく言えないけどとにかくヤバい、と警告が鳴り響いている。「別に取って食ったりしませんよ」と笑うジェイドに、その笑顔がこわいんだよなぁとは思った。
「僕、ちょうど使い魔が欲しかったんですよ」
は息をのんだ。使い魔というのは、自分より強くなければ契約しない。しかしはもう気付いている。だってさっきキスしたし、唾液飲んだし、ジェイドは自分より遥かに強い。けれど強いだけで契約するなんて時代遅れだ。それで理不尽な扱いを受けるのは、は御免だった。性格の相性、本当にこの人に自分を使うだけの力があるか、魔獣はそういうものを本能的な部分で見極める。力に関しては全く問題ない。けれどの本能は、こいつはヤバいから止めておけと言っている。
「……やだ」
そっぽを向きながらそう言ったに、ジェイドは「なんで嫌なんです?」との腰を掴みながら笑った。
「性格の……不一致……」
そんな離婚理由みたいなとジェイドは思ったが言わなかった。「僕たち初対面じゃないですか」、言外になんで会ったばかりのお前に性格がわかるのだとジェイドは言う。笑みの深くなったジェイドに、は更に恐ろしくなった。本当にまずい。このまま契約されたら、いや双方の同意がないと出来ないけど、でもとにかくそういう方面に話を持っていかれたらまずい、とは隙をついて逃げようとした。「こら、話の途中ですよ」、どてん、またしても逃走失敗。の足を掴むジェイドの手に、力が入る。「あぁ、折ってしまえば逃げませんね」、ギシギシ、ギ……バキン。骨の折れる音。は泣いたし叫んだ。同時に学んだ。物理的な力も強い。
「痛い!痛い!信じらんない!」
「あなたが逃げようとするから」
「だからって骨折るなんて!うう……痛いよぉ……私、優しい人としか契約しないもん……」
「そうですか、それはすみません」
ジェイドはそう言うと治癒魔法を発動させた。見えないけれど、の折れた骨は元通りくっついた。はマジでこいつはヤバいな、と思ったが反抗したらもっとヤバくなることがわかったのでおとなしくすることにした。それに、はこの治癒魔法を見て確信した。ジェイドは物凄く優秀な魔法士だ。主人としては申し分ない力、むしろお釣りがくるくらい。の心は揺れた。ほんのちょっとだけ。
「あなたやっぱりこわい……」
「いい子には優しくしますよ」
の涙を拭うジェイドの手つきは優しいのに、笑顔がこわい。
「……ほんとに?」
「はい。それはもうとびっきり甘やかします」
いい子にしてればね、と繰り返された言葉に、は思い出す。確かに、拾ってくれたとき自分を抱き抱えた腕は優しかったし、お風呂に入れてくれたときも優しかった。ジェイドは嘘は吐いていないだろう、とは感じた。強くて優しい主人、それはが今何よりも欲しいもの。「……もう足折ったりしない?」は潤んだ瞳でジェイドを見る。
「あなたが逃げようとしなければ」
ジェイドは笑う。は考える。自分がいい子にさえしていれば、強くて優しい主人を手に入れられる。使い魔としてしか生きてこなかったは、野生で生きるなんて出来ない。美味しいごはん、ふかふかのベッド、甘やかしてくれる主人、野生では手に入らないものばかり。あと何より主人から定期的にごはんを得られる。契約をしていなくとも、自分より強い人からなら得ることはできる。けれど結局一時凌ぎに過ぎない。あかの他人から貰える質も量も、契約を結んだ主人から貰えるものとは天と地の差。はジェイドから唾液を貰った。契約をしていないジェイドから貰ったのに、あんな少しだけでの身体は回復した。じゃあ、契約を結べばもっと……。は考える。じっくり考える。ジェイドがヤバいやつだということ以外、メリットしかないのでは。それがの結論。
「絶対絶対もうひどいことしない?」
「はい。しません。あなたがいい子にしていれば」
「……あなたの名前」
「ジェイド・リーチです」
「ジェイドくん。私は」
「さん」
「さん、は止めて。主人にそう呼ばれるの変な感じするから」
「そうですか。では、」
それに頷いたは、目を閉じて両手を組んだ。ジェイドは、それは神に懺悔する格好に似ているなと、昔読んだ本を思い出した。
「私、はジェイド・リーチを主人と認め、忠誠を誓います」
ジェイドは魔獣と契約するのは初めてだった。「左手出して」、ジェイドは言われた通り左手をに差し出す。はジェイドの手の甲にキスを落とした。の唇が離れた手の甲が、熱を帯びる。手の甲に浮かび上がった小さな魔法陣のようなものに「これは?」とジェイドが問う。
「私と契約してますよって言う契約印。他の魔獣に、ジェイドくんにはもう契約してる使い魔がいるってわかるようにするものだから、魔獣以外には見えないよ」
「なるほど。僕はに契約印はつけられないんですか?」
「それは今から」
はジェイドの左手に、自分の右手を重ねた。ジェイドの左手の契約印が淡く光る。
「あなたは私と契約すれば、私を使い魔として使役できます。私を使い魔と認め、魔力を供給し、不当な扱いをしないと誓いますか?」
「はい、誓います」
「じゃあ、どこでもいいからキスして」
どこでもと言われ、ジェイドは、の首に唇を落とした。の首が熱を帯び、ジェイドのピアスと同じ色の石が付いた首輪が浮かぶ。は「これが契約印だよ」と首輪を指先で叩いた。
「これ、他の場所にキスしてたら違うものが?」
「うん。前の主人は足首だったから、アンクレットだった」
「あぁ、それも良かったですね。足枷みたいで」
「趣味悪いね……」
「契約印の変更って出来ないんですか?」
「出来ない。どこでもいいとは言ったけど、主人が無意識に一番印をつけたいところを選んでるから、足首は選ばなかったと思う」
「……なるほど」
確かにジェイドは無意識のうちに首を選んでいたなと思い出す。首以外にも手でも足でも目に入ったのに。それに、自分の所有印である首輪が着いたは悪くないな、とジェイドは思った。
「これで契約は成立。主人が死ぬか、契約を破棄したいって言わない限りジェイドくんは私のご主人様。あ、一度破棄したら二度と契約は結べないからね」
ジェイドはそれに「わかりました」と笑う。ジェイドには契約を破棄する気もを逃す気もさらさら無い。とりあえず主人を得られたことに安堵するはまだ知らない。ジェイドの執着心を。「たくさん甘やかして、可愛がってね、ご主人様」と言ったのを後悔する日がくることを。