目が覚めたら知らない天井だった。広いベッド。私の部屋じゃない。どこだろう、ぐるりと見回せばサイドテーブルに血だらけのトランプが置かれていた。ハートのエース。これ、どこかで見たことがあるなと思い出そうとしたけれど、記憶の中に当たりは無かった。トランプなんてどこにでもあるし、気の所為だろうともう一度部屋を見回そうとしたら、扉が開いた。

「おや、目が覚めたのかい。おはよう」

マグカップを両手に持った男は、笑顔でそう言った。「ココア淹れたんだけど飲むだろ?」とトランプの横にカップを置いた。甘い香りがするそれは私の好きなもの。ベッドに腰掛けた男は「飲まないの?」と自分のカップに口付けた。私は戸惑って、男の顔を見てすぐ逸らして、また目を合わせた。

「あの、あなた誰ですか……」

男は数回瞬きをした後、にっこり笑って「酷いなぁ。ボクのこと忘れちゃったの?それともそういう遊び?」と首を傾げた。訳がわからない。起きたら知らない部屋、知らない男。それなのに目の前の男は私を知っているかのように接してくる。何て言ったらいいのか考えたけどわからない。男はカップをサイドテーブルに置くとベッドに上がってきた。思わず縮こまって身を引いた私に、男は嫌な顔をするでもなく私の頬に触れた。

「そうやって怯えられると、出会った頃を思い出すね」

そう言ってひどく優しく触れるから、私は思わず「私とあなたって、どういう関係なんですか」と口走っていた。

「恋人だよ」
「恋人……」
「そ。ところで、キミ自分の名前言える?」

「正解。じゃあ好きなもの」
「ココア」
「うん、正解。ボクの名前は?」
「……わからない」
「ボクはヒソカ。コレ、覚えてる?」

コレ、とヒソカさんは私の首を指差した。「自分じゃ見え辛いか」と呟いたヒソカさんがどこから出したのか手鏡を私に向けた。私の首にはダイヤモンドが輝く華奢なネックレス。シンプルだけど存在感のあるそれは、自分じゃ絶対に買わないデザインだ。私はダイヤモンドが嫌いだから。「去年のキミの誕生日に、ボクがキミに贈ったんだよ」、ヒソカさんがネックレスを指先で撫でる。「……覚えてません……。ごめんなさい……」、蚊の鳴くような声でそう言えば、ヒソカさんはまた私の頬を撫でた。冷たい指先はどこか懐かしかったけれど、やっぱり私の記憶の中には無いものだった。するりとヒソカさんの手が離れて、「出身地は言える?」と訊かれた。それに答えて、何度か同じような問答を繰り返した。家族の名前、飼ってたペット、子供の頃の思い出、エトセトラ。数十分して「うん」と頷いたヒソカさんは「ボクはそういうのに詳しくないけど、記憶喪失みたいだね」と言った。

「それもボクに関する記憶が無くなってるみたいだ」
「ごめんなさい……」
「謝ることないさ。あぁ、でもその怯えた顔はそそられるけど」
「……」
「取って食ったりしないから安心して」

不安の残る私に、ヒソカさんは少し考えてから「そうだ、キミに手品を見せてあげよう」と血だらけのトランプを手に取った。何で血だらけなのか、と訊こうとしたけれどそれはヒソカさんの手の中であっという間に新品に変わっていた。思わず「え?!」と声を上げればヒソカさんは「これだけじゃないよ」と笑った。それからヒソカさんがトランプを一瞬振れば、それはもう一枚増えて、更にもう一回振るとまた一枚増えた。三枚になったトランプを更に振ると、トランプは消えた。ヒソカさんが手をパッと広げるも、そこには何も無い。

「すごい」
「ボクは奇術師だからね」

そう言って笑った顔は、昔見たピエロに似ている気がした。

「キミはボクの手品を見るのが好きだった」

ヒソカさんが独り言のように呟いた。確かに私は手品を見るのが好きだ。昔、母に連れられてデパートに行ったことがある。そこでピエロが客寄せのために手品をやっていた。タネも仕掛けもあるはずなのに、それを微塵も感じさせない手品が、私は大好きだった。それから度々デパートに行ったけれど、ピエロがいると嬉しかった。あの頃ピエロは幸せの象徴だった。子供の頃の思い出はこんなに簡単に思い出せるのに、私は本当に記憶喪失なのだろうか。本当にヒソカさんと恋人なのだろうか。疑問は残るばかりだけど、起きたらヒソカさんの部屋に居たり、ネックレスを着けていたり、ヒソカさんが知っている私自身のことだったり、否定するには難しい。

「ボク、これからお仕事だから出るけど好きにしてていいからね」

「ボクの部屋で過ごせば何か思い出すかもしれないし」、とヒソカさんは空になったカップと中身が残ったままのカップを持ち上げた。私は「……ありがとうございます」と返しておいた。ヒソカさんはそれに「どういたしまして」と笑うと部屋を出て行った。
まだいろいろ不安だけど、ヒソカさんは悪い人ではなさそうだし、もし本当に私たちが恋人でそれを忘れているとしたら申し訳なさすぎる。それに、今頼れるのはヒソカさんしか居ない。抜け落ちているのはヒソカさんとの記憶だけのはずなのに、頼れる知人や友人が思いつかない。両親は数年前に他界しているし、きょうだいも居ない。とりあえず今日はここに居よう、とベッドから出ようとしたらヒソカさんが戻ってきた。先程とは違って、髪の毛を上げて化粧を施している。まるでピエロだ。

「別人……!」
「その反応も懐かしいねぇ。あのときはすっぴんのボクを見てそう言ってたけど」

クスクス笑いながらマグカップを差し出してきた。「淹れ直したから飲みなよ。少しは落ち着くだろ」、赤いカップにココアが映えている。

「いただきます」
「はい、どうぞ」

一口飲めば、程よい甘さとあたたかさが広がっていく。「美味しい」と口にすればヒソカさんは「それは良かった」とニコニコしていた。そういえば、ヒソカさんは、ずっと笑っている。私がヒソカさんのことを何も覚えていなくても、嫌な顔一つせず、ずっと。
全部飲んで「ごちそうさまでした」と言うと、ヒソカさんは「ボクのことを忘れてしまったキミに、ひとつ教えてあげる」と私の手からカップを抜き取った。私は返事をしようとしたけれど、歪んだ視界にそれは叶わなかった。ぐらぐらする視界で、ヒソカさんが笑っている。

「ボクは気まぐれで嘘つきなんだ。それだけは忘れちゃだめだよ」

ひどく優しい声が耳を撫でて、私は意識を手放した。