熱くて苦しくて、目の前が霞んで意識が朦朧としてくる。呼吸も出来なくなってきて、そうなって初めて、私の首に掛かっていた手が離れる。誰かが「ごめんね、つい興奮しちゃって」と口角を上げる。酸素を取り込むのに必死な私は、それに返してる余裕もなくて、そんな私を見て「金魚みたいだねぇ」ってまた笑うのだ。それから誰かは「ごめんね」と私を抱き締めた。
「……はぁ」
寝苦しさで目が覚めた。枕元の時計は午前四時を示している。随分と現実味を帯びた夢を見ていた。私の首を絞める手には温度があって、私に笑いかけるあの顔を、私は知っている気がする。でも思い出せない。
「どうしたの」
隣で寝ていたヒソカさんが、そう言いながら起き上がる。昨日、ヒソカさんに関する記憶だけが無くなってしまった日から、私はヒソカさんの家でお世話になっている。私たちは一緒に暮らしていたのだとヒソカさんは言っていた。本当かはわからないけれど、私は帰る家を思い出せなかった。そんな家は元々無かったのかもしれない。
「すみません、起こしちゃいましたか」
「ボクは眠りが浅いから」
「悪い夢でも見た?」とヒソカさんが私の髪を撫でる。
「悪い夢……では無かった気がします……。でも、良い夢でもなくて……」
「どんな夢?」
「……忘れちゃいました」
「そう。もう少し寝ようよ」
腕を引かれてベッドの中へ戻る。ヒソカさんは私を抱き締めて目を閉じた。私はヒソカさんの体温を、知っている。知っているのに、記憶の糸は繋がらない。
「ボクは気まぐれで嘘吐きなんだ。それだけは忘れちゃだめだよ」、ヒソカさんはそう言っていた。けれどヒソカさんは優しいし、良くしてくれる。こんなに大事にしてくれる恋人なら、忘れたりしないし、忘れたくないと思うはずだ。それなのに、私は何も覚えていない。何で忘れてしまったのだろう。
***
ヒソカさんの家は、物が少なくて生活感があまり無かった。何か思い出すかも、とヒソカさんに許可を得て物色したけれど、これといって成果は無かった。ただひとつだけ、気になるものがあった。写真だ。ジャポンの民族衣装である浴衣を着た私が、片手に金魚の入った袋を持って笑っている。
「この写真って……」
「あぁ、それ。ジャポンの縁日とかいうのを模したイベントがあったんだよ。キミが行こうって誘ってくれてね、和服の貸し出しもしてたから折角だし着ようってなったんだ。覚えてない?」
「すみません……。でも、私、金魚を大切にしていた気がするんです」
「……そうだね。キミはとても丁寧に世話をしていたよ」
ヒソカさんがそう言って私の手から写真を抜き取った。「これはボクの」と笑う。
「キミがあんまり綺麗だったから」
だから写真を撮ったのだと、一枚だけ残しておいたのだと、どこか遠くを見ながらヒソカさんは言う。
ふと、ヒソカさんの手に渡った写真の裏面が目に入る。そこに印字された日付は一週間ほど前だった。私たちが一緒に暮らしていたなら、私の帰る家がここしか無いのなら、金魚はここに居るはずだ。けれど、どこにもその姿は無かった。縁日の金魚は長生きしない、と聞いたこともあった気がするけれど、丁寧に世話をしていたなら一週間程度では死なないはずだ。どこに、と口を開きかけて、止めた。ヒソカさんが、優しい目で写真を眺めていたから。
私は「何か淹れますね」とキッチンへ向かおうとしたけれど、ヒソカさんが写真から顔を上げて「ボクがやるよ」と得意の手品で写真を仕舞った。
「今キッチンちょっと散らかってるんだ。だから入っちゃダメだよ」
ヒソカさんがいつもの笑顔を浮かべる。私はそれを聞いて不思議に思う。部屋は物があまりないとはいえ常に片付いていてキレイだし、使った食器もすぐに洗っているようだったから、キッチンだけ散らかっている想像が出来ない。でも家主はヒソカさんだし、と私はそれに返事をした。
そのキッチンに入る機会があったのは翌日のことだった。
朝、ココアを淹れてくれたヒソカさんの携帯が鳴った。部屋を出て数十分で戻ってきたヒソカさんは「お仕事に行ってくるよ。カップはそのままでいいから」とピエロの格好になっていた。私は「いってらっしゃい」と返して、ヒソカさんを見送る。そのままでいいと言われたけど、カップを洗うだけならすぐに済むし、とキッチンへ入ったのだ。
散らかっているから、と言われていたそこは全然そんなことなくて、むしろきちんと整理されていた。どうしてあんな嘘を吐いたのだろう、とシンクにカップを置く。時間が止まったかのような錯覚。カップを一度水で流したいのに、私の手は止まったまま。視線が、ある一点に釘付けになる。金魚だ。死んだ金魚が、いる。
「カップはそのままでいいって言ったのに」
カップが、私の手から滑り落ちて、シンクの中で大きな音を立てた。「割れなくて良かったね」、いつもの笑顔でヒソカさんが言う。
「なんで……」
「忘れ物しちゃってね。戻ってきたんだよ」
速くなる鼓動、汗ばんでいく身体。呼吸が苦しくなる。熱くて、目の前が霞んできて、意識が朦朧としてくる。
「だからキッチンには入っちゃダメだよって言ったんだ」
「キミは大切なもののために泣ける子だから」、ヒソカさんが笑っている。記憶の中の靄が晴れていく。あの夢で、「金魚みたいだねぇ」って笑っていたのは、「ごめんね」と私を抱きしめたのは、ヒソカさんだ。
「……はぁ」
寝苦しさで目が覚めた。枕元の時計は午前四時を示している。随分と現実味を帯びた夢を見ていた。私の首を絞める手には温度があって、私に笑いかけるあの顔を、私は知っている気がする。でも思い出せない。
「どうしたの」
隣で寝ていたヒソカさんが、そう言いながら起き上がる。昨日、ヒソカさんに関する記憶だけが無くなってしまった日から、私はヒソカさんの家でお世話になっている。私たちは一緒に暮らしていたのだとヒソカさんは言っていた。本当かはわからないけれど、私は帰る家を思い出せなかった。そんな家は元々無かったのかもしれない。
「すみません、起こしちゃいましたか」
「ボクは眠りが浅いから」
「悪い夢でも見た?」とヒソカさんが私の髪を撫でる。
「悪い夢……では無かった気がします……。でも、良い夢でもなくて……」
「どんな夢?」
「……忘れちゃいました」
「そう。もう少し寝ようよ」
腕を引かれてベッドの中へ戻る。ヒソカさんは私を抱き締めて目を閉じた。私はヒソカさんの体温を、知っている。知っているのに、記憶の糸は繋がらない。
「ボクは気まぐれで嘘吐きなんだ。それだけは忘れちゃだめだよ」、ヒソカさんはそう言っていた。けれどヒソカさんは優しいし、良くしてくれる。こんなに大事にしてくれる恋人なら、忘れたりしないし、忘れたくないと思うはずだ。それなのに、私は何も覚えていない。何で忘れてしまったのだろう。
***
ヒソカさんの家は、物が少なくて生活感があまり無かった。何か思い出すかも、とヒソカさんに許可を得て物色したけれど、これといって成果は無かった。ただひとつだけ、気になるものがあった。写真だ。ジャポンの民族衣装である浴衣を着た私が、片手に金魚の入った袋を持って笑っている。
「この写真って……」
「あぁ、それ。ジャポンの縁日とかいうのを模したイベントがあったんだよ。キミが行こうって誘ってくれてね、和服の貸し出しもしてたから折角だし着ようってなったんだ。覚えてない?」
「すみません……。でも、私、金魚を大切にしていた気がするんです」
「……そうだね。キミはとても丁寧に世話をしていたよ」
ヒソカさんがそう言って私の手から写真を抜き取った。「これはボクの」と笑う。
「キミがあんまり綺麗だったから」
だから写真を撮ったのだと、一枚だけ残しておいたのだと、どこか遠くを見ながらヒソカさんは言う。
ふと、ヒソカさんの手に渡った写真の裏面が目に入る。そこに印字された日付は一週間ほど前だった。私たちが一緒に暮らしていたなら、私の帰る家がここしか無いのなら、金魚はここに居るはずだ。けれど、どこにもその姿は無かった。縁日の金魚は長生きしない、と聞いたこともあった気がするけれど、丁寧に世話をしていたなら一週間程度では死なないはずだ。どこに、と口を開きかけて、止めた。ヒソカさんが、優しい目で写真を眺めていたから。
私は「何か淹れますね」とキッチンへ向かおうとしたけれど、ヒソカさんが写真から顔を上げて「ボクがやるよ」と得意の手品で写真を仕舞った。
「今キッチンちょっと散らかってるんだ。だから入っちゃダメだよ」
ヒソカさんがいつもの笑顔を浮かべる。私はそれを聞いて不思議に思う。部屋は物があまりないとはいえ常に片付いていてキレイだし、使った食器もすぐに洗っているようだったから、キッチンだけ散らかっている想像が出来ない。でも家主はヒソカさんだし、と私はそれに返事をした。
そのキッチンに入る機会があったのは翌日のことだった。
朝、ココアを淹れてくれたヒソカさんの携帯が鳴った。部屋を出て数十分で戻ってきたヒソカさんは「お仕事に行ってくるよ。カップはそのままでいいから」とピエロの格好になっていた。私は「いってらっしゃい」と返して、ヒソカさんを見送る。そのままでいいと言われたけど、カップを洗うだけならすぐに済むし、とキッチンへ入ったのだ。
散らかっているから、と言われていたそこは全然そんなことなくて、むしろきちんと整理されていた。どうしてあんな嘘を吐いたのだろう、とシンクにカップを置く。時間が止まったかのような錯覚。カップを一度水で流したいのに、私の手は止まったまま。視線が、ある一点に釘付けになる。金魚だ。死んだ金魚が、いる。
「カップはそのままでいいって言ったのに」
カップが、私の手から滑り落ちて、シンクの中で大きな音を立てた。「割れなくて良かったね」、いつもの笑顔でヒソカさんが言う。
「なんで……」
「忘れ物しちゃってね。戻ってきたんだよ」
速くなる鼓動、汗ばんでいく身体。呼吸が苦しくなる。熱くて、目の前が霞んできて、意識が朦朧としてくる。
「だからキッチンには入っちゃダメだよって言ったんだ」
「キミは大切なもののために泣ける子だから」、ヒソカさんが笑っている。記憶の中の靄が晴れていく。あの夢で、「金魚みたいだねぇ」って笑っていたのは、「ごめんね」と私を抱きしめたのは、ヒソカさんだ。