馬車が空を飛んでいた。はその馬車のことはよく知っていたけれど、馬車に乗っている人間のことはなに一つ知らなかった。まだ夜明け前だ。こんな時間から、馬車はどこへ向かうのだろう、とはそれを眺めていた。他にすることがなかった。は科学者という職を辞してから、毎日暇を持て余していた。新しい研究や発明をする気になれず、ただ毎日を呆然と消費していく。

?」

後ろから聞こえた声に、は振り向かなかった。振り向かなくても、声でシャイロックだと分かったから。そういえば、この近くにシャイロックの店があったなと、は思い出した。
「シャイロック」とが呟くと、シャイロックはの隣に立った。はシャイロックの顔を見られなかった。もうずっと、何年も前からはシャイロックと目を合わせられずにいた。

「何してるんです? こんな夜明け前に」

シャイロックはそれを知っているから、を見ず、が見ている馬車を見つめながら問うた。は、自分のことも、自分の作った機械のことも見て欲しくなかった。シャイロックがそれを嫌っていることを知っているから。

「……馬車を見てたの」
「こんな時間から、どこへ行くのでしょうね」
「さあ……。夜更けに出るのは、大抵遠方に行くときだと思うけれど」
「アレ、そんなに長時間持つんですか?」
「……魔力の補給さえ怠らなければ、ずっと走り続けるわ」

「そういうふうに作ったから」とは小さな声で言う。
は科学者だった。ムルの魔法科学技術の発明に、手を貸したことも何度もある。機械が出来たばかりの頃は嬉しかった。自分の研究がやっと形になったことが嬉しかったし、人間たちも魔法が使えることを喜んだ。けれどは、何百年と経ち、自分の愚かさに気付く。科学者や発明家というのは、問題が起きてから自分の愚かさに気付くのだ。いつだって。       

「あんなもの、作らなければよかった」

が馬車から目を逸らして俯いた。シャイロックはのその言葉を、もう何度も耳にしていた。
魔法科学装置のために、殺された魔法生物や魔法使いを、は何度も目にしたことがあった。魔法使いの出生率は下がっているものの、人間の数は増えている。増え過ぎたのだ。人間の数が多くなれば多くなるほど、魔法を使ってみたいと望む人間も増える。は空飛ぶ馬車を作ったとき、その未来を予想しなかった。目先の快楽だけに夢中だったから。

「シャイロック、私を恨んでいるでしょう」

それも、シャイロックは何度も耳にした言葉だった。「いいえ」と返すシャイロックの言葉を、は何度も聞いていた。

「恨んでなんかいませんよ」
「嘘よ。シャイロックが好きだったこの国を壊したのは私だわ」
「それは否定しませんが、だけの所為ではありませんから」

「九割はあの男の所為ですよ」とシャイロックが言う。は何も言えなかった。俯いたままのを一瞥したシャイロックは、再度馬車に目を向けながら「いえ」と諦めたかのように溜息を吐いた。

「恨んでいました」

はそっと顔を上げると、シャイロックを見た。シャイロックもを見る。二人が目を合わせるのは、随分と久しぶりだった。は「やっぱり」と自嘲するように笑った。

「ですが、もうそんな気持ちもどこかへいきました」
「……嘘」
「ふふ、そうかもしれませんね。もうあなたを恨んでいないと言いながら、そう思い込むようにしているだけかもしれません」

はまたシャイロックから目を逸らす。シャイロックは眉を下げて笑うと、の髪をそっと撫でた。そのまま熱くなったの目尻を滑る。

「恨みより、花も妬むほどに可愛らしいあなたの笑顔をもう一度見たいという気持ちのほうがずっと強いんですよ」

の目から溢れた涙が、シャイロックの手を濡らす。は「ごめんなさい……、ごめんなさい……っ」と謝りながら、涙を止めることが出来なかった。
シャイロックの優しい声と、あたたかい手に、は一瞬でも許して欲しいと願ってしまったのだ。は許されたいと望んだことはないし、許されることなど無いと思っていたのだ。そうでなければ自分の愚かさを忘れてしまいそうになるから。
泣き止まないを抱き寄せたシャイロックは、「泣き止んだら、いつかのように、また私に笑顔を見せてくださいますか?」と微笑んだ。は小さく頷く。それが罪滅ぼしになるのなら、と。
(綻びの意識)