※夢主は天使
※何でも許せる人向け


オレは天使を見たことがあった。もうずっと前のことだけれど。天使のように優しいだとか、死にかけて天使が見えたとか、そういう比喩的なことでは無くて、本当に、本物の天使を見たのだ。彼女は純白のワンピースを着ていた。背中には大きな美しい羽。どうしてオレの前に現れたのか未だにわからないけれど、彼女は「祝福に満ちる日がきっとやって来るわ」と言っていた。彼女はオレの頭を撫でて、頬に口付けをした。「どうかそれまで変わらずにいてね」、彼女の微笑みをずっと忘れていない。

「……変わらない人間なんて存在しないよ」

僕は画像フォルダに入った一枚の写真を眺めていた。オレと白いワンピースを着た天使が一緒に写っている。天使に出会った証拠でも残したかったのだろうか。僕とアイツは記憶は共有しているけれど、感情までは共有していない。「見ているだけで良いなんて、僕には理解出来ないな」、僕はゴミ箱のマークを押した。
感情は共有していないけれど、互いに何を考えているのかは解る。天使を見たアイツは、こんなに美しいのかと、いたく感動したのだ。それから考えた。「祝福に満ちる日」はいつなのか。それを見つける前に、僕と代わってしまったけれど。写真の彼女は美しく、僕もその姿を見たいと衝動に駆られた。見たい、いや、それだけではだめだ。アイツはあの日「この天使がずっと傍に居てくれれば良いのに」、そう願ったのだ。アイツには叶えられなかった。天使との会話も、目の前にした感動も、全部アイツの記憶だ。僕は僕だけの記憶が、僕だけの感情が欲しい。アイツと僕は違う、それを何度も繰り返してきた。


どうすれば彼女にもう一度会えるだろうか。アイツは彼女に出会ったあの日から、天使に関する本をたくさん読んだ。どうしたらまた会えるのか、会えたらどうやって現世に繋ぎ止められるのか。僕も新たな本を読んで知識を増やしたけれど、彼女に会う方法は見つからなかった。積み重ねた本の山を一冊ずつ崩していれば、時間はあっという間に過ぎ、気付けば外は夕焼けに染まっていた。庭の紅葉が色づき始めたな、と本から視線を移す。彼女に会えないまま、季節は秋を迎えていた。もう一度本に目を戻そうとしたところで気付く。紅葉の木の傍に、知らない女性が居る。新しい庭師でも雇ったのだろうか。いや、違う。過ごしやすい季節とはいえ、この時期にノースリーブのワンピースを着ている。背中には羽がある。彼女だ。アイツの記憶の中の、もう消してしまったあの写真の彼女だ。気付けば部屋を飛び出していた。

彼女は歌を口ずさんでいた。讃美歌の98番だ。クリスマスにはまだ早い、そう言おうとして止めた。柔らかい声が、心地好く僕の鼓膜を揺らすから。ずっと聞いていたかったけれど、僕に気付いた彼女は歌うのを止めて「こんにちは」と微笑んだ。アイツの記憶と同じ、一度も忘れたことが無い微笑みだった。

「こんにちは。君は、あのときの天使か?」

彼女は「そうよ、貴方のことをずっと見守っている」、そう言うと彼女の顔から微笑みが消えて、彼女の顔に暗い影が落ちた。僕の目を見た彼女は、見たくないとでも言うように目を伏せた。

「でも、貴方は変わってしまったわ」
「……変わらない人間なんて存在しないよ」

違う。僕は変わったんじゃない。僕は最初からここに居た。「……君は誰ですか?」、いつかのチームメイトの言葉が頭の中に響く。僕は僕だ。アイツとは違う。

彼女が背中に携えた羽を広げた。咄嗟に彼女に手を伸ばす。折れてしまいそうに細い腕だった。「どうしてアイツの、オレの前に現れたんだ」それは自分でも驚くほどに必死な声だった。彼女の睫毛が震える。目を開けた彼女は「貴方が泣いていたから」、僕の手をそっと離した。彼女のワンピースが風に揺れる。白く、無垢で純真な天使。そうだ、思い出した。あの日、白百合に囲まれた母を見た日、アイツは泣いていた。誰にも見られないようにと庭の端で、一人で。いや、一人じゃない。僕も泣いていた。母を知らない僕が、泣いたのだ。思えば、アイツと感情を共有したのは、あれが最初で最後だった。オレも、僕も、もう逢えない人を想って、泣いていた。

「待ってくれ」

彼女をここで離したら、きっともう会えない。あの日から、彼女を忘れたことは無かった。アイツも、僕も、たくさん本を読んで、記憶を探って、調べて、たったひとつだけ天使をこの世に繋ぎ止める方法を見つけた。

「なあに」
「抱き締めても良いだろうか」

彼女がふわりと宙を舞って、僕を包み込むように抱き締めた。あたたかい、それはずっと昔、母に抱き締められたときに似ている気がした。それもアイツの記憶だけれど。離したら彼女は行ってしまう。そう思ったら、僕は自分の感情を、理性を、行動を制御出来なかった。彼女に気付かれないように羽に触れる。天使をこの世に繋ぎ止めておくたった一つの方法。羽を、折ってしまえば良い。僕は羽に触れた手に力を込めた。「あ゙あ゙あ゙っ!!!」彼女の叫び声が、庭に響く。羽根が散っていく。羽を折られた天使は、もう天界へは帰れない。僕は今までにない程高揚し、幸福感を得ていた。彼女も、彼女の苦痛に染まった顔も、羽を折ったときの感触も、全部僕の、僕だけの記憶で、僕だけの感情だ。アイツに叶えられなかった願いを、僕は叶えた。

「祝福の日は、もうすぐだったのに」

彼女がか細い声で言う。頬には涙が伝っていた。涙を拭えば、彼女はもっと泣いた。彼女を忘れたことは無かった。真っ白で、純真な、僕だけの天使。祝福に満ちる日。僕にとって、その日は今日だったのだ。
天使を撃ち落とせ!