朝の天気予報では雨と言っていたけれど、雨は一切降らなかった。閉じられたままの傘を片手に私は「……ごめん」と口にする。それを聞いた真澄くんは溜息を一つ。それから「別にいい」と言った。「ごめん、ほんとに。お詫びにお昼ごはん奢るから。何がいい?」「……カレー」「カレー?好きだっけ?」「アイツが行きたいって言ってた店が近くにあるから」「アイツ、」、アイツって誰、訊こうとして止めた。知りたいような、知りたくないような、そんな気持ち。「いいよ。行こう」、私たちは並んで歩いた。
真澄くんを舞台に誘ったのは私だった。母の知人が主宰している劇団のもので、お友達とおいでと貰ったチケットを真澄くんに見せれば「行く」と意外なことに良い返事が貰えた。私はそればかりが嬉しくて、舞い上がって、きちんと公演日の確認をしていなかった。劇場の扉に掛けられた「本日休演」の看板を思い出す。真澄くんと出掛けられるのは今日が最後だった。卒業式まで二週間で、私は卒業したらすぐに海外留学が決まっていた。折角、最後に思い出を作るチャンスだったのに。
「ごめんね、本当に」
「別にいいって。それよりはやく決めてくれる」
「うん。真澄くんもう決めたの?」
「決めた」
「何にするの?」
「これ」
真澄くんが指差したのは「当店人気No.1」と書かれたスタンダードなカレーだった。カレーの専門店だけあって種類は豊富で、トッピングや辛さも充実している。「アイツが好きそう」、それはきっと私に向けられた言葉じゃなくて、真澄くんの独り言なんだろうけれど、私は「アイツって誰」と口走っていた。知りたいような、知りたくないような、でもやっぱり知りたい。誰が、真澄くんにそんなに優しい顔をさせるのか。
「……好きな人」
知りたい、知りたくない、やっぱり知りたい。好きな人のことだから。あぁでも、知らなきゃよかった、なんて。
「好きな人、いるんだね」
真澄くんが何か言いかける、私はそれに気付かない振りをしながら「私もそれにしようかな」と店員さんを呼んだ。注文を聞き終えた店員さんは「本日カップルのお客様限定でドリンクサービスをしておりまして、何がよろしいですか?」と笑顔を浮かべた。私はそれに恋人じゃない、と断ろうとしたけれど真澄くんが「紅茶、ホットで」と返すから固まってしまう。店員さんが私に「彼女さんはどうしますか?」と問う。彼女。それがどうしようもなくむず痒い。私は真澄くんの彼女になれない。「あ、えっと……、オレンジジュースで」、店員さんは笑顔で「かしこまりました」と言うと下がっていった。
私たちは恋人じゃない。私の好きな人は真澄くんだけれど、真澄くんの好きな人は私じゃない。私じゃないのに、どうして紅茶なんて頼むの。
「好きな人がいる」
真澄くんが「劇団の監督なんだ」と続けた。喉がカラカラで、私は汗をかいたグラスに口付ける。「うん」と返すので精一杯だった。
「俺は、その人に振り向いて欲しいし、その人のために頑張りたい」
劇団の監督さんを、私は何度か見たことがあった。年上の、笑顔が素敵な人だったなと思い出す。年上を好きなんて馬鹿みたい。だって年齢の差は埋められないし、どこかに連れ出すための車も免許も私たちは持っていない。でも、そんなのきっと真澄くんには必要無いんだろうなって、思う。結局こんなの、私の負け惜しみでしかない。
「だから、
の気持ちには応えられない」
真澄くんの瞳が、真っ直ぐ私に向けられる。そんな風に真摯に話をしてくれる人だった?そんな風に優しい声を出す人だった?私の知らないうちに、私の知らないところで、真澄くんは変わった。過ごした時間も、出会った順番も、そんなの全部関係ない。わかってる。わかってるけど、真澄くんを変えた人が、私なら良かったのに。そう思ってしまう私は、まだまだ成長出来ないお子様だ。私は「……うん。そっか」と余裕たっぷりに返してやった。
本当はずっと前からわかっていた。初めて真澄くんの舞台を見に行ったとき、私気付いたんだ。真澄くんが、監督さんをそういう目で見てるって。「好きな人がいる」こともその相手も、もうずっと知ってた。真澄くんが、私を見てくれないことも。
「あ、もしかして紅茶頼んだの、罪滅ぼし?」
「別に。飲みたかっただけ」
「真澄くん、優しくなったね」
もう喉の渇きは癒えていたけど、すっかり氷のとけた水に口付ける。「お待たせしました」と軽快な店員さんの声が響いて、カレーがテーブルに置かれた。それを咀嚼しながら、私はきっと真澄くんはこれからもどんどん成長して、変わっていくんだろうなと考える。私はずっと、大人になれないこどものまま。
勿体ないから、と今日行くはずだったチケットを「監督さんと行ってきなよ」と渡そうとしたけれど、舞台のチケットは鞄の中でぐしゃぐしゃになっていた。
なんにもなれない
(リクエスト企画 / お前の本気の碓氷真澄を見せてくれ)