ガシャンと音を立てて珈琲カップが割れた。新調した絨毯が、茶色く染みていく。カップは落としたから割れたのではなかった。目の前の男が、故意だか過失だか判断はしかねるが、自らの手で割ったのだ。この男は力が強い。細い手首からは想像できないほどの力を持っていて、頸を絞められたら一瞬であの世へ逝けるだろう。男、中原中也はカップの破片で傷ついた手を一瞥して、私を見た。私は繰り返す。
「子供が、できたの」
中也はそれまで座っていたソファから立ち上がり、私に近づいて、優しく、例えるなら一日お日様を当てたような柔らかなシーツで包むように、私を抱きしめた。「本当か」「私、中也に嘘つかないよ」「そうだよな……。悪ぃ、服、汚しちまった」中也は日頃人を殺しているとは思えない程、柔らかい笑みを浮かべていた。「血が出てるから、手当しよう」私は中也の腕の中から抜け出して、救急箱を取りに行った。
手当をしている最中、中也は私のお腹を見つめていて、彼の機嫌を損ねないために子供は正解だったのだと、考えてしまった。
中也は私をあまり外に出したがらなかった。必要なものも欲しいものも買ってきてくれたし、不便だと思うことは少なかったから、それに関して抵抗することは滅多になかった。滅多にないだけで、全くないわけではない。ずっと部屋の中にいると気が滅入ってしまうときもあるわけで「外に出たい」と云えば中也は決まって理由を訊いてきた。理由を訊かれても買い物に行く必要はないし、ただ外に出て日の光を浴びたいだけだった。けど中也はその理由では納得しなかった。しかし嘘はすぐにバレてしまう。私は中也に嘘をつくのがとてつもなく下手だった。外に出たい一心で「祖母の墓参りに行きたい」だとか「アルバイト先でお世話になった先輩にどうしても会いたい」だとか云ったことがあるけれど、中也は私のことを何でも知っていた。私はアルバイトをしたことが無いし、祖母も生きている。血縁とはいえ仲が良いわけでもないから、元気かどうかは知らないけれど、中也に「手前のばあさんはピンピンしてんだろ」と写真を見せられたときは眩暈がした。私は中也にこの人が祖母だと教えたことはないし、一体如何やって見つけたのだ。一体どんな方法で情報を仕入れているのか訊くのが憚られるくらい、中也は本当に何でも知っていた。そんな中也に嘘を吐くのは困難を極めた。だから私は早々に嘘を吐くことをやめ、正直にただ外に出たいだけだと伝えたが、どうしても納得してくれず「大人しく部屋にいろ」と云われてお終いだった。
「男か? 女か?」
「未だ判らないよ」
「女ならに似て可愛いだろうなぁ」
中也が目を細めて私のお腹を撫でる。子供は正解だった。私は基本的に中也に従順だ。其れは衣食住全ての面倒を見て貰っている、というのもあるが、中也は怒るとこわいし面倒くさい。私は一度だけ中也に本気で反抗したことがある。中也は怒りを私にはぶつけたことがない。見るからに機嫌は悪くなるし、口を聞いてもらえないことはあるが、怒りに任せて私を殴ったり、暴言を吐いたり、そういうことはなかった。私、には。
「名前、決めねぇとな」
「未だ性別も判らないのに、気が早いんだから」
「どっちの名前も考えときゃいいだろ」
「そうだね。……ねぇ、中也」
「何だよ」
「……あんまり、死体を増やすなって、尾崎さんが……」
中也は怒ると面倒くさい。八つ当たりで、殺さなくても良い人間まで殺してしまうのだ。それは中也の不出来な部下だったり、敵組織の下っ端だったり、様々らしい。らしい、と云うのは私は中也が仕事をしているところを、見たことが無いし、この先見ることもない。中也がそれを許さないから。先日、少々喧嘩をした夜に尾崎さんから連絡があったのだ。あまり中也の機嫌を損ねるでない、中也には余計な死体を増やすなと伝えろと。
「姐さんには全部お見通しってことか……」
「御免なさい……。私が、中也の云うこと聞かなかったから……」
「……姐さん、他に何か云ってなかったか」
「中也の機嫌を、悪くするなって……」
「そうか。あれは、機嫌が悪かったっつぅか、判らなかったんだよ」
「……何が?」
「如何したら、手前が、プロポーズを受け入れんのか」
私が本気で反抗したのは「結婚しねぇか」と指輪を見せられたときだった。その指輪は今も引き出しに仕舞われていて、多分、日の目を見ることはこの先無いだろう。小振りのダイヤモンドが輝いていたのを思い出す。
「子供、嬉しい?」
「あぁ? 当たり前だろ。好きな女との餓鬼が出来て、嬉しくねぇ男がどこにいんだよ」
「中也は、私のこと好きなの?」
「そう云ってんだろ」
「……私は、中也のこと、そういう目で見られないよ」
私が結婚に関して反抗する理由はただひとつ。私たちは恋人でも婚約者でもない。赤の他人だからだ。
「子供が、できたの」
中也はそれまで座っていたソファから立ち上がり、私に近づいて、優しく、例えるなら一日お日様を当てたような柔らかなシーツで包むように、私を抱きしめた。「本当か」「私、中也に嘘つかないよ」「そうだよな……。悪ぃ、服、汚しちまった」中也は日頃人を殺しているとは思えない程、柔らかい笑みを浮かべていた。「血が出てるから、手当しよう」私は中也の腕の中から抜け出して、救急箱を取りに行った。
手当をしている最中、中也は私のお腹を見つめていて、彼の機嫌を損ねないために子供は正解だったのだと、考えてしまった。
中也は私をあまり外に出したがらなかった。必要なものも欲しいものも買ってきてくれたし、不便だと思うことは少なかったから、それに関して抵抗することは滅多になかった。滅多にないだけで、全くないわけではない。ずっと部屋の中にいると気が滅入ってしまうときもあるわけで「外に出たい」と云えば中也は決まって理由を訊いてきた。理由を訊かれても買い物に行く必要はないし、ただ外に出て日の光を浴びたいだけだった。けど中也はその理由では納得しなかった。しかし嘘はすぐにバレてしまう。私は中也に嘘をつくのがとてつもなく下手だった。外に出たい一心で「祖母の墓参りに行きたい」だとか「アルバイト先でお世話になった先輩にどうしても会いたい」だとか云ったことがあるけれど、中也は私のことを何でも知っていた。私はアルバイトをしたことが無いし、祖母も生きている。血縁とはいえ仲が良いわけでもないから、元気かどうかは知らないけれど、中也に「手前のばあさんはピンピンしてんだろ」と写真を見せられたときは眩暈がした。私は中也にこの人が祖母だと教えたことはないし、一体如何やって見つけたのだ。一体どんな方法で情報を仕入れているのか訊くのが憚られるくらい、中也は本当に何でも知っていた。そんな中也に嘘を吐くのは困難を極めた。だから私は早々に嘘を吐くことをやめ、正直にただ外に出たいだけだと伝えたが、どうしても納得してくれず「大人しく部屋にいろ」と云われてお終いだった。
「男か? 女か?」
「未だ判らないよ」
「女ならに似て可愛いだろうなぁ」
中也が目を細めて私のお腹を撫でる。子供は正解だった。私は基本的に中也に従順だ。其れは衣食住全ての面倒を見て貰っている、というのもあるが、中也は怒るとこわいし面倒くさい。私は一度だけ中也に本気で反抗したことがある。中也は怒りを私にはぶつけたことがない。見るからに機嫌は悪くなるし、口を聞いてもらえないことはあるが、怒りに任せて私を殴ったり、暴言を吐いたり、そういうことはなかった。私、には。
「名前、決めねぇとな」
「未だ性別も判らないのに、気が早いんだから」
「どっちの名前も考えときゃいいだろ」
「そうだね。……ねぇ、中也」
「何だよ」
「……あんまり、死体を増やすなって、尾崎さんが……」
中也は怒ると面倒くさい。八つ当たりで、殺さなくても良い人間まで殺してしまうのだ。それは中也の不出来な部下だったり、敵組織の下っ端だったり、様々らしい。らしい、と云うのは私は中也が仕事をしているところを、見たことが無いし、この先見ることもない。中也がそれを許さないから。先日、少々喧嘩をした夜に尾崎さんから連絡があったのだ。あまり中也の機嫌を損ねるでない、中也には余計な死体を増やすなと伝えろと。
「姐さんには全部お見通しってことか……」
「御免なさい……。私が、中也の云うこと聞かなかったから……」
「……姐さん、他に何か云ってなかったか」
「中也の機嫌を、悪くするなって……」
「そうか。あれは、機嫌が悪かったっつぅか、判らなかったんだよ」
「……何が?」
「如何したら、手前が、プロポーズを受け入れんのか」
私が本気で反抗したのは「結婚しねぇか」と指輪を見せられたときだった。その指輪は今も引き出しに仕舞われていて、多分、日の目を見ることはこの先無いだろう。小振りのダイヤモンドが輝いていたのを思い出す。
「子供、嬉しい?」
「あぁ? 当たり前だろ。好きな女との餓鬼が出来て、嬉しくねぇ男がどこにいんだよ」
「中也は、私のこと好きなの?」
「そう云ってんだろ」
「……私は、中也のこと、そういう目で見られないよ」
私が結婚に関して反抗する理由はただひとつ。私たちは恋人でも婚約者でもない。赤の他人だからだ。
過ち