窓から見える庭の木が、淡く色づき始めて、春がきたことを知る。
この家には時計やカレンダー等の、時間を感じられるものが一切置かれていない。
私が此処に来たのは、その木が緑色の頃。あの人は私の手を引いて「今日から此処が君の家だよ」と云った。あの人は優しくて、私の望みを何だって叶えてくれた。寂しい、と云えば私を抱き締めて一緒に眠ってくれたし、甘い物が食べたいと云えば、たくさんの洋菓子を購ってきてくれた。他にも私はたくさん我儘を云って、その度にあの人は笑って「いいよ」と云ってくれた。私の生活の殆どは、あの人の手中だった。我儘は聞いてくれたけれど、あの人は私を一切外に出さなかった。「外にはこわいことがいっぱいだから」「君は此処に居ればいい」「綺麗な侭でいて」「他の誰かの処になんて、いかないで」、あの人は何度も繰り返した。私はあの人が底知れない闇の中で、彷徨い泣いていたことを知っていた。だから私は、あの人を受け入れた。そうすれば私だけを見てくれる。そう思っていたから。そう思って、毎日どんなに夜が更けてもあの人の帰りを待った。「ただいま」って微笑むあの人に抱き着いて、おかえりなさいって云えることが、幸せだった。
幸せだったのに、庭の木に雪が積もり始めた頃から、あの人は帰ってこなくなった。
もう何日待ったかわからなくなった。わかるのは、春がきたことだけ。昔、誰かが春は出会いと別れの季節だと云っていた。そういえば、あの人に出会ったのも、春だった。街にあるたくさんの木が淡く色づいていたのを憶えている。どうして、あの人は帰って来ないのだろう。
生活の殆どをあの人に任せていた私の身体は、衰弱し、歩くことすら儘ならなくなってきていた。此の侭、あの人が帰らないまま、私は此処で死んでしまうのだろうか。私は寝台から外を眺める。この家では、庭の木が季節を感じる唯一だった。どうせ死ぬのなら、あの木の下で死にたい。
扉の開く音がしたのは、そんなことを考えていたときだった。
鍵を、開ける音。いつも、あの人が帰ってくるときにする音。帰って来たんだ。帰って、来てくれたのだ。玄関まで迎えに行きたくて、寝台から降りたけれど、足は云うことを聞いてくれず、床に倒れる。それでもあの人におかえりなさいって云いたくて、私は力の入らない身体を、どうにか動かす。もう少しで、扉の前。私がドアノブに手を伸ばした瞬間、扉が開かれた。あの人が、帰ってきてくれた。
「おかえりな、さ、」
「あぁ、。やっと会えました、 」
違う。あの人じゃない。目の前に居るのは、あの人じゃない。長い髪、血の気のない顔、アメジストを埋め込んだかのような瞳が、私を見ている。男が跪いて、私の頬に、触れる。違う。違う違う違う。あの人は、あの人の手は、こんなに冷たくない。
「、、こんなに弱って。もう大丈夫ですよ」
男が、私を抱き締める。私の衰弱した身体は、私の云うことを聞かない。
「ぼくは、貴女を迎えに来たんです」
男が笑う。
「……あなた、だれ」
「あぁ、。ぼくを忘れてしまったのですか」
どうしてそんな泣きそうな顔で私を見るの。私は、あの人以外、知らないのに。
「忘れてしまったのなら、思い出せばいいだけです。大丈夫。ぼくが、全部、思い出させてあげますから。だから、一緒に帰りましょう」
「かえる?かえるって、どこへ?」
「が本来居るべき場所です」
「わたし、あのひとが、かえってくるのを、まってる」
男が、私の顔を見て、笑う。その笑い方は、あの人に似ている。男が注射器を私の腕に刺した。「ただの睡眠薬です」男が囁く。あの人も、男と同じことを、私にしたことがあった。途端に身体が、いつも以上に重くなって、私は、再び男に抱き締められる。
「あぁ、愚かな。可哀想な。もう貴女の待ち人は、此処には帰ってきません」
「……な、んで……」
「貴女は彼に捨てられたから」
「……あな、た……だ、れ……」
脳は考えることを放棄したかのように回らない。目蓋が落ちる。男が、私を抱え上げて、歩き出す。
「フェージャ。昔のように、そう、呼んでください」
庭の木が淡く色づいたのを見たのは、これが最後だった。
この家には時計やカレンダー等の、時間を感じられるものが一切置かれていない。
私が此処に来たのは、その木が緑色の頃。あの人は私の手を引いて「今日から此処が君の家だよ」と云った。あの人は優しくて、私の望みを何だって叶えてくれた。寂しい、と云えば私を抱き締めて一緒に眠ってくれたし、甘い物が食べたいと云えば、たくさんの洋菓子を購ってきてくれた。他にも私はたくさん我儘を云って、その度にあの人は笑って「いいよ」と云ってくれた。私の生活の殆どは、あの人の手中だった。我儘は聞いてくれたけれど、あの人は私を一切外に出さなかった。「外にはこわいことがいっぱいだから」「君は此処に居ればいい」「綺麗な侭でいて」「他の誰かの処になんて、いかないで」、あの人は何度も繰り返した。私はあの人が底知れない闇の中で、彷徨い泣いていたことを知っていた。だから私は、あの人を受け入れた。そうすれば私だけを見てくれる。そう思っていたから。そう思って、毎日どんなに夜が更けてもあの人の帰りを待った。「ただいま」って微笑むあの人に抱き着いて、おかえりなさいって云えることが、幸せだった。
幸せだったのに、庭の木に雪が積もり始めた頃から、あの人は帰ってこなくなった。
もう何日待ったかわからなくなった。わかるのは、春がきたことだけ。昔、誰かが春は出会いと別れの季節だと云っていた。そういえば、あの人に出会ったのも、春だった。街にあるたくさんの木が淡く色づいていたのを憶えている。どうして、あの人は帰って来ないのだろう。
生活の殆どをあの人に任せていた私の身体は、衰弱し、歩くことすら儘ならなくなってきていた。此の侭、あの人が帰らないまま、私は此処で死んでしまうのだろうか。私は寝台から外を眺める。この家では、庭の木が季節を感じる唯一だった。どうせ死ぬのなら、あの木の下で死にたい。
扉の開く音がしたのは、そんなことを考えていたときだった。
鍵を、開ける音。いつも、あの人が帰ってくるときにする音。帰って来たんだ。帰って、来てくれたのだ。玄関まで迎えに行きたくて、寝台から降りたけれど、足は云うことを聞いてくれず、床に倒れる。それでもあの人におかえりなさいって云いたくて、私は力の入らない身体を、どうにか動かす。もう少しで、扉の前。私がドアノブに手を伸ばした瞬間、扉が開かれた。あの人が、帰ってきてくれた。
「おかえりな、さ、」
「あぁ、。やっと会えました、 」
違う。あの人じゃない。目の前に居るのは、あの人じゃない。長い髪、血の気のない顔、アメジストを埋め込んだかのような瞳が、私を見ている。男が跪いて、私の頬に、触れる。違う。違う違う違う。あの人は、あの人の手は、こんなに冷たくない。
「、、こんなに弱って。もう大丈夫ですよ」
男が、私を抱き締める。私の衰弱した身体は、私の云うことを聞かない。
「ぼくは、貴女を迎えに来たんです」
男が笑う。
「……あなた、だれ」
「あぁ、。ぼくを忘れてしまったのですか」
どうしてそんな泣きそうな顔で私を見るの。私は、あの人以外、知らないのに。
「忘れてしまったのなら、思い出せばいいだけです。大丈夫。ぼくが、全部、思い出させてあげますから。だから、一緒に帰りましょう」
「かえる?かえるって、どこへ?」
「が本来居るべき場所です」
「わたし、あのひとが、かえってくるのを、まってる」
男が、私の顔を見て、笑う。その笑い方は、あの人に似ている。男が注射器を私の腕に刺した。「ただの睡眠薬です」男が囁く。あの人も、男と同じことを、私にしたことがあった。途端に身体が、いつも以上に重くなって、私は、再び男に抱き締められる。
「あぁ、愚かな。可哀想な。もう貴女の待ち人は、此処には帰ってきません」
「……な、んで……」
「貴女は彼に捨てられたから」
「……あな、た……だ、れ……」
脳は考えることを放棄したかのように回らない。目蓋が落ちる。男が、私を抱え上げて、歩き出す。
「フェージャ。昔のように、そう、呼んでください」
庭の木が淡く色づいたのを見たのは、これが最後だった。
世界でいちばん愚かな子たち