※暗い、救いがない


「……傷、また増えただろ」

薄暗いリビングのソファにうつ伏せになった彼女に声を掛ける。返事は無かった。部屋の電気を点けたら、彼女は顔を上げて「春名くん……」と眠そうな声で俺の名前を呼んだ。寝ていたのか、と思いながら部屋に散乱したぬいぐるみやらクッションやらを拾い集め、彼女の居るソファの近くに置いた。その内の一つ、以前彼女の誕生日に贈った小さなクマのぬいぐるみを持って、ソファに背を預けるように座った。

ちゃん、また部屋を散らかしたクマか?」
「……なにその語尾」
「クマは、クマって語尾になるんだクマ〜」
「春名くん、今日お仕事じゃないの?」
「ぼくの質問の方が先だクマ〜」
「別に……、散らかしたくて散らかしてるわけじゃないし……」
「キッチンも散らかした形跡があったクマ〜。食器も割れてたし、ちゃんが怪我してないか心配なんだクマよ。それと、春名くんは今日はお仕事お休みクマ〜」
「怪我は、してないよ」

じゃあ左腕に増えた、線を引いたような傷は何なんだと、問い詰めたかった。テーブルに放置されたままの、血がこびりついたカッターは何なんだ、と。なんで、と。でも彼女は俺よりずっと大人で、嘘を吐くことも、誤魔化すことも得意だった。それらが得意だから、大人と呼ばなければならない訳ではないけれど、少なくとも、彼女の中の大人は、そうなのだ。そして彼女は、誰かに本心を曝け出すことが、一番の苦手だ。彼女は、攻撃でしか、本当の自分を出すことが出来ない。その攻撃の対象が、彼女自身と彼女の私物なのだ。ぬいぐるみたちが散乱しているのも、食器が割れているのも、彼女の自傷行為も、見るのは初めてではない。

「春名くん」
「何だクマ〜?」
「……春名くんから貰ったぬいぐるみに、あたってごめんね」
「これからちゃんと大事にしてくれるクマか?」
「うん」
「約束クマよ〜。ってことで、怒ってないから、そろそろ顔見て話したいんだけど」
「腹話術終わり?」

身体を起こした彼女が、ソファを半分空けた。彼女にクマを手渡しながら「腹話術っていうか裏声使っただけだけどな〜。でもなかなか上手だったっしょ」と半分空いたソファに座った。彼女はクマを撫でながら「うん。春名くん、いろんなことが出来るようになってきたね」と母親みたいなことを言う。

「母親みたいなこと言うな」
「だって、本当のことだもん。春名くん、元から器用だけど、アイドルになって、いろんなお仕事して、いろんなこと出来るようになった。すごいよ」
「でも出来ないこともたくさんある」
「そうなの?」
「うん」
「例えば?」
「例えば……」

彼女の、クマを撫でている腕。長袖の隙間から、傷跡が覗く。見るのは初めてではない。彼女の攻撃を、初めて見たときに止められたら良かったのに。でもその初めては、俺にとっては初めてなだけで、彼女にとってはもう何度目かわからないものだった。俺は彼女を助ける術を知らない。俺は高校生で、未成年で、何の力も持っていない。自分の責任だって持てないのに、誰かの責任まで持つことは出来ない。子供の俺と、大人の彼女では、見ている景色も世界も、きっと違う。彼女を、彼女の地獄から、救い出してやれない。それが、俺に出来ないこと。

「……、やっぱ秘密。さんには出来る俺を見せたいから教えない」
「えー、春名くんの出来ないこと、知りたかったな」
「なになに、そんなに俺に興味ある?」
「うん」
「そうやって直球で言われるとちょっと照れるなー」
「ほんと〜?春名くんモテそうだから、そういうこと言われ慣れてるでしょ」
「まぁ女子から告白されたことはあるけど、付き合うのはさんが初めて」
「ほんとか〜?怪しいなぁ。今度学校まで行こうかな」
「じゃあハイジョの奴らに紹介しないとな。あっでも旬に「スキャンダルは勘弁してくださいよ」って釘刺されそう」
「あの一番しっかりしてる子?皆でこの間バラエティ出てたとき背の高い子の隣にいた」
「そうそう!あっあの番組見てくれた?どうだった?」
「面白かったよ。高校生って感じ」
「現役高校生だからな。さんの学生時代ってどんな感じだったの?」
「私のこと知りたいの?」
「俺、さんのことまだ全然知らないから」

彼女は一度俺と目を合わせて、すぐに逸らした。「普通の子だったよ」クマをテーブルに置きながら、彼女は言った。普通の子。頭の中で反芻して、普通の子ってどんな子だろうと考える。考えるけれど、難しい。「春名くんは優しいね」彼女が俺を見て言う。あ、この表情。時々見るこの表情を、どこかで見たことがあった気がする。けれど、どこで見たのだったか、思い出せない。

「優しい?」
「うん。普通はね、学校まで行こうかなって言われたら、止めろって言うよ」

そう言われて、また普通って何だろうかって考える。でもやっぱり難しい。多分、どんなテストより。

「そうか?」
「そうだよ。私、面倒くさいでしょ」
「面倒くさいって思ったことは無いけどなー」
「嘘」
「ほんと」
「私のこと、知りたい?」

先程と同じ問いかけのはずなのに、何だかそれは酷く恐ろしいものに聞こえた。知ってしまったら、どうなるのだろう。そんなこと、普段は考えないのに。知りたい、知りたくない、やっぱり知りたい。彼女が好きだから。

「うん」

そう答えると、彼女が身体をこちらに向けて、俺の首に両腕を回した。少しだけずれたスカートから覗く足にも、手首にあるのと同じ傷が見えた。知ってしまったら、どうなるのだろう。彼女は縋りつくように俺を抱き締めて、首元に顔を埋めた。それから、感情の無い声で言う。

「いいよ。私と一緒に、地獄に居てくれるなら」

あぁ、思い出した。あの表情。あれは、子供が泣きだす直前の、それに酷く似ているのだ。

もう戻れないこどもたち

お題箱「ハイジョーカーの誰かのお話を読んでみたいです。」