知らない街だった。空は嘘みたいに青く、その下に露店が並び、何処も彼処も賑わっている。
は目を凝らす。商売人も客人も、皆面をつけていた。或る者は猫の面を、或る者は兎の面を、様々だった。面はどれも樹花鳥獣図屏風に描かれた動物たちのような、そんな見た目だった。商売人と客の遣り取りが聞こえる。「良い生地が入った」「幾らだ?」「三百両だが、まけてやろう」、
がそんな声をただ聞いていれば、後ろから腕を掴まれる。
「手前、人間だな」
振り返ると男が居た。男の面は、羊だった。「どうやって此処へ来た」男の鋭い声。
「……気がついたら此処に居たんです」
「此処に来る前、何をしていた」
「……覚えていません」
は震える声で云った。
は確かに此処へ来る前、何かをしていた。何か、行動していた筈だが、そこだけ記憶が抜け落ちたかのように思い出せなかった。男は短い溜息の後、「来い」と
の腕を引っ張った。
男に連れられて来たのは、うっそうとした森の中の、道が三本に別れている所だった。どの道も先は見えない。見えるのは光だけだった。
「この道はどれも正解じゃねぇ。正解はあっちだ」
男が示したのは、三本の道からほんの少し離れた洞窟だった。「彼処が手前が帰るべき場所に繋がってる」男が腕を離し、
の背を押した。「走れ、絶対に振り向くな」
は走り出した。男に礼を告げることも忘れ、走った。走って、走って、そこで
の記憶は途切れる。
気が付けば
は自宅の台所に立っていた。手に果物ナイフを握っている。傍らには林檎。
は自分が林檎を切ろうとしていたのだと思い出した。
翌日、
はビルの屋上に居た。昼食を食べ終え、社内に戻ろうとしたところで、ピィピィと鳴く声。
は耳を傾ける。フェンスの向こうに小鳥が居た。近づいて見れば、その鳥は羽に怪我をしていた。どうしたものか、と考え
はフェンスによじ登り、越え、そうっと鳥に近付き手を伸ばした。しかし、鳥は羽を広げ空へ羽ばたいていった。多少よろついているものの、見えなくなるほど彼方へ飛んでいった鳥を見て、
は息を吐いた。その瞬間だった。
は足を踏み外した。身体が、宙に投げ出される。
は目を閉じた。
地に足がついた感覚に目を開ければ、嘘みたいに青い空、賑わう露店、動物の面を着けた者たち。
は、前にも此処へ来たことがあるような気がしたけれど、霧が記憶を覆い尽くしているかのように、思い出せなかった。
「見て、人間が居るわ」
猫の面を被った女が
を見て云った。周りの者たちも「本当だ」「人間だ」「人間がいる」と口々に云う。周囲の視線を一身に浴びた
は、こわくなって走り出す。兎に角走って、路地裏に入ったところで、一人の男と目が合った。男は面を被っていない。同じ人間かと期待した
だったが、男が手にしている羊の面を見て思い出した。記憶の霧が晴れる。あのときの羊の男だ。男は「手前……!」と驚きの声をあげた。しかしすぐに羊の面を被り、
の腕を引き、あの日と同じ道へ案内した。
「あの、あの日も、今日も、有り難う御座います」
洞窟へと足を踏み入れる直前に、
は云った。男は腕を離し、
の背を押した。「……もう二度と来るなよ」、
はあの日と同じく走り出した。走り、息が上がってきた頃、足を止めた。悲鳴が聞こえたからだ。羊の男の悲鳴だ。「二度と来るなよ」、その言葉を、
は違えた。
戻れば、其処には顔の半分が包帯で隠れ、大きな尻尾と狐の耳を持つ男が、羊の男の首を絞め上げていた。羊の男の面は、彼らの足下に転がっている。
「て、め、このっ、」
抵抗する羊の男を、狐の男はただ見つめていた。
は慌てて駆け寄り、狐の男の手を掴んだ。
「やめ、やめてっ!」
それまで無表情だった狐の男は、
を視界に入れるやいなや、人好きのする笑顔を浮かべ、羊の男から手を離した。
「あぁ、戻ってきたの、良い子だね」
狐の男が
の手を取る。
は恐ろし気に狐の男を見た。
「かはっ、手前、なんっ、で、戻って来た」
倒れ込んだ羊の男が云う。
が口を開くよりはやく、狐の男が云った。
「中也が悲鳴をあげなければ、彼女に聞こえなければ、戻ってくることなんてなかったのにねぇ」
愉快に話す狐の男は、それだけ云うと羊の男に懐から取り出した小瓶の中の液体を飲ませた。
が「だめっ」と止めに入ろうとするも、狐の男に手を繋がれている所為で自由に動けない。「只の睡眠薬だよ。ところで、君、名前は?」空になった小瓶を揺らしながら、狐の男は問う。「駄目だ」と羊の男の声に、
は反射的に開きかけた口を閉じる。羊の男は「名前を、教えるな、帰れな、くなる」と云った。それから羊の男は眠ってしまった。「中也ってば、本当にいつも私の邪魔しかしないのだから」とひとりごちた狐の男は、もう一度
に「名前は?」と問うた。口を開こうとしない
に、「まぁ、それはそれで後のお楽しみに取っておこうかな」と呟いた狐の男は「私は太宰と云うんだ」と話し出した。
「此処は私の庭でね、人の子が迷い込んだらしいと聞いたのだけど、中也、……そこの羊の男ね。中也は私に云わずに勝手に帰してしまうんだもの」
「……本当に、睡眠薬なんですか」
「そうだよ。息してるだろう。明日には目を覚ますよ。君が大人しく私についてくるのなら、中也のことは殺さないであげるよ」
太宰は
と視線を合わせるように屈み、
の頭を撫でた。「大丈夫、取って食ったりしないよ。私も人の子とお喋りがしたいだけさ。帰り道もちゃんと教えてあげる」、そう話す太宰の目を見て、
は息をのんだ。深い、深い闇の色をしていた。寂しそうで、可哀想な、子供のような。「……お喋りくらいなら」と
は頷いた。
は、この大きな子供を、放っておくことが出来なかった。太宰は目を細めて笑い、
の手を引いて歩き出した。
が驚いたのは道中、太宰が通る道を皆が開けていくことだった。面を被った者たちは、太宰を見るなり道の端に寄り、中には小さな悲鳴をあげるものも居た。
はそんな様子に、太宰が此処は自分の庭だと云っていたなと思い出す。そんな
に気付いた太宰は「九尾の私に好き好んで近付く者なんてこの辺には居ないのだよ」と話した。ちらりと太宰を見上げた
は、何も云えなかった。
「此処が私の家」と連れられたのは、何本もの鳥居が並んだ先の神社だった。
「客人が来るのは久しいなぁ」
太宰は中へと
を招き入れる。中は簡素で、机には大量の本、端にも積まれた大量の本に、
は目を向けた。
「あぁ、それ。私は此処にずぅっと一人でね、本を読むくらいしかやることが無いのだよ」
「ずぅっと……」
「うん、ずぅっと」
「ずぅっと、って、どのくらいなんですか……?」
「うぅん、どのくらいだったかなぁ。千年くらいかな」
判ってはいたのだ。この街も、此処に居る者達も、
自身が生きる現実とは違うもので、
と同じ人間では無いのだろうと、
は判っていた。判っていたけれど、どこかぼんやりと考えていた。いざ言葉にされると、途端にそれが真実なのだと思い知らされる。
はひとつ、身震いをした。そんな
に「私が恐い?」と太宰は机の本を退かしながら訊いた。
は、伺うように太宰を見る。
「恐い、です。でも……」
「でも?」
「私は、太宰さんのこと、何も知らないから」
太宰が微笑む。
「君は優しい子だ」
それから
は、日が暮れるまで太宰と過ごした。太宰の本を読ませて貰ったり、花札をしたり、太宰の尻尾を触らせて貰ったり。本は難しくて殆ど理解出来なかったし、花札は太宰の圧勝、尻尾は大変ふかふかで
は眠りそうな心地だった。ふと太宰を見た
は、太宰が楽しそうに笑っていて安心した。安心したから「私、そろそろ帰らないと」と
は云った。太宰の顔から笑みが消える。「もう日暮れだものね」外に目を遣ればすっかり赤く染まっていた。
「本当に帰りたい?」
太宰が
を見つめる。
は太宰の瞳に、恐ろしいものが宿っている気がして、思わず逸らした。帰りたい、そう云いたいのに言葉に出来ない。「帰りたくないから、此処へ来たんだ」、太宰の掌が、
の瞼に触れる。
の意識は途切れる。
は何処かに居た。霧に覆われ、周りが見えない、何処かに立っていた。後ろから聞き慣れた声。「此処はね、自ら死のうとする人間だけが来られる場所なんだよ」振り返っても誰も居ない。また後ろから声。「皆元は人間だったのだよ」矢っ張り誰も居ない。上からも聞こえる。「動物の面を着けているのはね、自分たちが人間だなんて思いたくないからさ」、下から、四方八方から、「だって人は疲れるだろう」。
は耳を塞いで膝に顔を埋めてしゃがみ込む。声は止まない。「あの日、君は林檎を切っていた。その最中に考えただろう、ナイフを、自分の手首に入れよう、って」「鳥を助けようとした日も、あのまま落ちれば死ねるって、そう思ったのだろう」、
が叫ぶ「止めて!」。目の前からの声、「あの日、君は祈った。どうか永遠に眠れるように、と」優しい声。昔、迷子になった自分を、母親が見つけたときのような、そんな声。
は顔を上げる。此方に手を差し伸べる太宰が居た。「その祈り、私が聞き届けたよ」。
は震える手で、太宰の手を取った。「名前を教えて」太宰が笑う。
「
」
が太宰と目を合わせる。可哀想な子供は、もう其処には居なかった。太宰は、子供が帰る場所をやっと見つけたかのような、そんな顔をしていた。
「あぁ、やっと私のものだ、
」
わたしは祈りの行方を知らない