※幸せじゃない


に覆い被さる国木田の額には汗が滲んでいた。骨ばった男らしい手が、の前髪に触れる。静かに息を吐いた国木田はに「本当に善いのか」と訊ねた。は頷く。国木田の顔が、ゆっくりとに近付く。

あ、接吻される───




「すまない、待ったか」

はっとして顔を上げたは、慌てて「いえ、私も今来たところですから」。国木田は「そうか。否、それでも待たせて悪かった」と謝る。は誘ったのは自分なのに、相変わらず律儀な人だと思い乍ら店へ這入った。
今日の約束は逢瀬では無いし、二人はそう云う仲でも無い。そう云う仲でも無いのに、はあんな夢を見てしまい、自分はなんてはしたない女なのだろうと自責の念に駆られる。そんなを他所に国木田は二人分の注文を済ませていた。が此の店ではいつも温かい紅茶を頼むのを、憶えていたのだ。

「それで、話と云うのは何だ?」

運ばれてきた珈琲を一口飲んだ後、国木田は訊く。問うたものの、察しはついている。も自分の紅茶を飲み、深く呼吸し、真っ直ぐに国木田を見る。

「好きです、国木田さんが」

また其の話かと心中で溜息を吐いた国木田は「悪いが、」目を伏せた。

「お前の気持ちには、答えられん」
「……何故ですか。そういうお相手がいらっしゃるのですか」
「そういう訳では無い……」

国木田はから目線を外し、珈琲を飲む。は本当は知っている。国木田にそういう相手は居ないが、忘れられない人が居るのを。どんな理由で忘れられないのかまでは判らないが、以前、少しだけ国木田の口から其の人の話を聞いたは、国木田の声色や表情から特別な人なのだと察した。そして其の人はもう此の世には居ない。国木田の心の中にはもうずっと、此の世には居ない、の知らない人間が棲みついているのだ。はこれが叶わない戀であることを判っている。判っていて気持ちを伝え続けるのには理由がある。にはもう、時間が無い。



***


「膵臓癌です」

窓に当たる大粒の雨の音が、にはやけにはっきりと聞こえた。若い医師が「手術をすれば助かる可能性もありますが……」と言い淀んだ。はどこか他人事のように「助からない可能性もあるんですね」と云った。

「癌は発見が早ければ早いほど、助かる確率も上がりますが……、さんの場合はかなり進行していて、難しいかもしれません。最善は尽くしますが、手術をしても命を落とす可能性もあります」

手術をするなら今すぐに、という説明をする医師の言葉をぼんやり聞いたが出した答えは現状維持だった。は生きるのに必死な訳では無いし、生きていればいつかは死ぬと思っている。それがこんなに早いとは思わなかったけれど。リスクの高い手術をしてまで、生きようとは思えなかった。叶えたい夢だとか、やりたいこととか、生にしがみつく理由も無かった。ただ一つ心残りがあるとすれば、何年も好きな人に、好きだと云って貰ったことが無い。
其の翌日から、は国木田に想いを伝え続けた。其の数はもう両の手では足りない。は国木田がに対してそういう感情を持てないことも判っている。判っているけれど、最期に愛して欲しい。の最期の我儘だった。



***


持って半年だと云われたの命は、もうすぐ終わる。寝ても覚めても怠く、寝台から起き上がるのも億劫な日が続いていた。本当にもうすぐ死ぬんだな、と家の天井を見詰める。そんなの携帯が鳴る。重い躰を動かし携帯を開けば「新着メール1件」の文字。差出人は国木田だった。それは一緒に昼食をどうかという誘いのもので、は少し考え、了承の旨を送った。は身支度をし乍ら、どうして自分を誘うのだろうと思案する。


私のことを好きでも無いのに。好きじゃ無いなら、突き離して欲しかった。いっそ嫌いになれるくらい、罵詈雑言を浴びせて欲しかった。そうしたら諦められるのに。

───「悪いが、お前の気持ちには答えられん」

泣きたいのは私なのに、傷付いたのも私なのに。あんな、苦しそうな顔で、云わないで欲しかった。


は何とか重たい躰を動かして、指定された喫茶店へ向かう。もう梅雨は明けた筈なのに、雨が降っていた。は道中、煙草を購った。今迄一度も吸ったことが無く、どうせ死ぬのだし、一度くらい善いかと思ったのだ。家から十分で行ける筈の喫茶店には、一時間かかった。国木田は未だ来ていない。少し遅れると電子手紙があったのだ。は一人、喫煙席で煙草を吸ってみた。初めて味わう苦さに咽て、慌てて水を飲む。ふと、窓から濡れた紫陽花が見えて、はいつか見た夢を思い出す。汗ばんだ額、大きな手、ゆっくりと近付く顔。

(全部、私のものに出来たら善かったのに。)

「すまない、待たせたな」

急いで来たのか、息の上がった国木田は、卓の上の灰皿を見て目を見開いた。「……喫煙者だったのか」席に着き乍ら国木田。は外の紫陽花から目を外し「初めて吸いました」と返す。

「そんなに美味しくないんですね」
「躰に悪いぞ」

そのときだった。の中で、細い糸のような、脆い何かがぷつり、と切れた。は家から此処迄、一時間かけて来たことを思い出す。 は、もう如何なったって善かった。だってには、明日は来ない。

「貴方に愛されない躰なんて、如何なっても善いんです」

静かに、けれど強くそう云ったを、国木田は驚いた顔で見詰める。はもう一度窓の外を見た。「……嘘でも善いから、好きって云ってよ」、の睫毛が震える。国木田は、悲しそうな、悔しそうな顔をする。一度開きかけた口を閉じて、また開く。人の少ない喫茶店で「すまない……」国木田の謝罪は、の耳によく届いた。紫陽花の葉が落ちる。雨は、未だ止まない。

明日は来ずとも紫陽花は咲く
(リクエスト企画 / 国木田くんでお任せ)