眠れなかった。
ムルに直して貰った過日鏡に、小ぶりなパールのイヤリングを入れて魔法をかけた。あの日は確かこのイヤリングを着けていたから、きっとあの日のことを映してくれるはずだと壁に目を向ける。
シャイロックの、シュガーをたっぷり入れたミルクティーのように甘くとろけるほど優しい顔が映る。シャイロックの瞳の中に映るのはわたしだ。わたしだけが、シャイロックの瞳を独り占めしている。
そっとキスをされて、髪を、頬を、耳を撫でられる。シャイロックの指がわたしの耳朶に触れて、パールのイヤリングを外した。
たった一度だけ、わたしがシャイロックに抱かれたのを知るのは、このイヤリングだけ。
ベッドに腰掛けてぼうっと映像を眺める。やがて行為が終わりそうな頃、映像の中のわたしは意識を手放す寸前だった。シャイロックがわたしの額に口付けて、優しく微笑んでいた。その微笑みは、それまで見たなかで一番優しかったように思う。
あの日の優しいシャイロックを見れば眠れるかもと思ったけれど、そううまくはいかないものだ。
昔から眠りが浅くて、よく夢を見た。楽しい夢、悲しい夢、怖い夢。どんな夢でもわたしは嫌いだった。特に嫌だったのは家族の夢。両親と楽しく会話をする夢が大嫌いだった。だって二人はわたしの言葉に耳を傾けたことは一度もなかったから。
夢を見る見ないの決定権は人には存在しない。それならば、見たい夢を見られるようにすればいいのだと、わたしは夢の研究を始めた。シャイロックにも協力して貰って、一度だけ血を貰った。魔法使いは髪の一本でも、切った爪の欠片でも媒介になる。
わたしはシャイロックの血を自分自身の研究のためにしか使わない、血を使ってシャイロックを呪ったり危害を加えたりしない、悪用もしない、血を貰うのはそのときの一度だけと約束をした。約束をしたのは、それが生まれて初めてだった。
そうして何十年も考えて、実験して、繰り返して、やっと完成させた。見たい夢を見られる魔法を。
「あなたのことが、世界で一番大好きですよ」
これは夢だ。都合の良い夢。わかっている。けれどわたしはそれに否定的な言葉を返せずに「わたしも」と返す。もう何度も、何度も、同じ夢を繰り返している。
ベッドに腰掛けて煙管から煙を燻らせるシャイロックから、それを取り上げて、そっと口付ける。キスは証明だった。シャイロックが、わたしを受け入れてくれているっていう、証明。
わたしはシャイロックに受け入れて貰えている。シャイロックはわたしを好きでいてくれている。
そうやって確かめて安心してはじめて、わたしはいつも眠りにつける。
「さあ、もうおやすみの時間ですよ」
「目が覚めてもそばにいてくれる?」
「あなたがそう望むのなら」
シャイロックは微笑んで、わたしの額に口付けた。
「おやすみなさい」と優しい声が、月明かりに混じって溶けていく。
この世界では、わたしが絶対的な支配者だった。望めば何だって手に入る。思い通りになる。けれど本当に心から欲しいものは、手に入らない。
見たい夢を見られる魔法は、見られる夢が限定される。
シャイロックに愛されたい、シャイロックの一番になりたい。それがわたしの望みだった。だからそういう夢が見られるように術式を組んだ。
魔法は成功だったし、わたしは自分に都合の良い夢を繰り返している。それなのに寝付きが悪いのは、わたしがもうこの夢を望んでいないからだ。
シャイロックは夢の中でも現実でもわたしを受け入れてくれている。けれど夢から覚めれば、わたしはシャイロックの一番じゃない。本当は一番なんかじゃ物足りなくて、誰よりもわたしが好きだと言って欲しい。そうしてわたしを安心させて欲しい。シャイロックの心を手に入れて、誰よりもシャイロックに愛されているのは自分だと、わたしはわたしを慰めたい。けれどそれこそ夢のまた夢だ。わたしはシャイロックの心の中に、大切な人がいるのを知っている。
本当の意味で、シャイロックの心を手に入れることは出来ない。それはシャイロックの中にあって、シャイロックが持っているからこそ価値があり美しいものだから。