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 眠りが浅くて、夜中に目が覚めるのは珍しくなかった。
 そういうときは起きて、バルコニーに出て月を眺めるのが習慣だった。〈大いなる厄災〉と呼ばれたそれは嫌われていたけれど、わたしはその輝きだけは美しいと思っていた。
 わたしの部屋は二階のずうっと奥の、日の光が入らない場所にあった。わたし以外屋敷からいなくなってしまった今、どの部屋を使っても良かったけれど、月の光が一番届くのはこの部屋だったから、そのまま使っていた。
 夜風が冷たくて肩を震わせたとき、「こんばんは、お嬢さん」と箒に乗った男が笑った。驚いて羽織っていたストールから手を離してしまい、一瞬強く吹いた風にそれが煽られた。慌てて手を伸ばしたけれど届かなかったそれを、男の手が掴む。男は掴んだストールを「身体が冷えてしまいます」と、ふわりとわたしの肩にかけた。

「初めまして。西の魔法使い、シャイロックです。この辺りで用があってこれから帰るところだったのですが、可愛らしい魔法使いが見えたので寄り道をしてしまいました」

 シャイロックはそう言うと、箒から降りてバルコニーに立った。「よろしければ、あなたのお名前も教えていただけませんか?」と言われ、シャイロックがかけてくれたストールを抱きしめながら、自分の名前を教えた。

「大きなお屋敷なのに人の気配が希薄なのを不思議に思っていたんですよ」
「昔は両親と使用人たちがいたのだけど、今はわたしだけだから……」
「では眠れない夜に話し相手になってくださる方もいらっしゃらないと?」
「……眠れないわけじゃ……」
「隈が出来ていますよ」

 シャイロックの親指が下瞼に触れて、そのままそこを滑る。驚いて、ぎゅうっと目を閉じたわたしを、シャイロックは喉を鳴らして笑った。
「よろしければ晩酌に付き合っていただけませんか?」とシャイロックが手を差し出した。いつか本で見た、お姫様をダンスに誘う王子様のようで、それがあまりにも様になっていたから、わたしは迷うことなく「わたしでよければ」とその手に自分の手を重ねた。
 部屋へ続く窓を開けて、中へ招き入れる。けれどこの家に客人なんて随分と久しぶりで、使用人たちもいない今、わたしはどうしていいのかわからなかった。
 シャイロックが晩酌と言っていたのを思い出して、屋敷にあるだけの酒を出した。わたしはあまり好きではないけれど、父が大層な酒好きでいろいろと嗜んでいた名残だ。
 何本か酒瓶を出したところで、シャイロックが「おや、それは」と一本の瓶に目を留めた。

「ベネットのワインじゃありませんか」
「ベネットのワイン?」
「ええ。私の生家で作られたワインなんです」

 わたしは酒に詳しくないから詳細は知らないけれど、父が「良い酒が手に入った」といつもより喜んでいたのを憶えている。
「飲む?」と訊けば、シャイロックはわかりやすく顔を輝かせた。魔法でグラスとお客様用の椅子を用意すると、シャイロックは踊るように席に着いた。それから手慣れた動作でワインを開けて、グラスに注いでいく。差し出されたそれを、遠慮しようかと思ったけれど、折角だし一杯くらいならいいかと受け取った。

「乾杯しましょうか」
「何に乾杯するの?」
「可愛らしい魔法使いとの出会いに、ですかね」

 美しく笑ったシャイロックがグラスを掲げるのと同じように、わたしもグラスを掲げた。カチンと軽快な音が響いて、それが合図かのように、シャイロックとの晩酌は踊り出す。舞踏会みたいだった。音楽は楽しい話、怖い話、面白い話、たくさんの言葉たち。
 シャイロックはいろんな話をしてくれたし、わたしの話もたくさん聞いてくれた。
 わたしたちは月だけが見ている舞踏会を楽しんだ。
 
 楽しい時間の終わりと夜明けは、思っているより早い。
 月が沈んだのと、わたしが欠伸を漏らしたのはほとんど同じだった。シャイロックはクスリと笑って「そろそろベッドに入る時間ですね」と言った。
 来たときと同じくバルコニーから帰るシャイロックを見送る。箒に乗ったシャイロックが手招きをして、わたしはバルコニーから身を乗り出すようにしてシャイロックに近付いた。シャイロックはそっとわたしの頬を撫でて「いい夢を」と額に口付けた。

「おやすみなさい、
「おやすみなさい、シャイロック」

 もうおやすみの時間からは離れてしまったけれど、何だかとても良い夢が見られる気がした。