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 シャイロックの店に行ったことがある。
 日光に弱いわたしにとって、シャイロックの店が夜に開いているバーなのは有り難かった。
 扉を少しだけ開けて中の様子を窺えば、店はもうすぐ閉店なのか人は疎らだった。わたしはあまり外に出ないから、人付き合いというのはシャイロックがほとんど初めてで、店の中へ入るのにも変に緊張してしまう。カウンター越しに客と会話をするシャイロックを見て、今店の中へ入ればわたしは邪魔になってしまうのではないかと踵を返そうとした。

「いらっしゃいませ、

 少しだけ開けていた扉はシャイロックの魔法で全開になり、店内の客の視線を、二、三人程度だけれど感じる。いつまでも突っ立っているわけにもいかない。シャイロックに挨拶を返しながら店の中へ入った。
「もうおしまい?」と問えば、シャイロックは「そのつもりでしたが、可愛らしいお客様が来たので」とわたしにカウンター席に座るように促した。カウンターには既に男が一人座っていて、その人とは一人分空けて席に着いた。
 シャイロックと言葉を交わすわたしを、その男が見つめていた。視線を感じつつも、同じように見返すなんてわたしには出来なくて、横目でちらりと見てすぐに逸らした。

「他人が苦手?」

 男は空になったグラスを揺らしながら、どこか楽しそうに問いかける。

「苦手というか……、あまり人付き合いをしないから……」
「へえ。でもきみ、シャイロックのことは好きなんだ」
「……そう見える?」
「見える。きみは店に入って真っ先にシャイロックへ向かった。他にも客はいて、誰かに興味を示したっておかしくないのに。人は本当に興味のある方に爪先が向くものだからね」

 何と返すべきか悩んでいたら、シャイロックが溜め息を吐きながら「ムル、レディに不躾ですよ」と、男の手から空になったグラスを取り上げた。
 ムルと呼ばれた男は「シャイロックだって彼女が好きだろう」と先程よりも楽しそうな声で言う。
 シャイロックは酒瓶やグラスを浮かせながらわたしに微笑んだ。

「愛らしいものは嫌いではありませんよ」

「どうぞ」と出されたグラスの中身はシャイロックと同じ瞳の色だった。あまり酒を好まないわたしのために作られたそれは、度数が低く甘口で、口の中に優しい味を広げる。優しい人が作るものは、優しい味がするのだと、初めて知った夜だった。

 西の天才学者、ムル・ハートの魂が砕けたと噂が囁かれ始めた頃のこと。
 それまで週に二日はうちに来ていたシャイロックが、パッタリと来なくなった。別に約束をしていたわけではないし、会う機会はいくらでもある。会いたければ会いに行けば良いと思っていた。けれどすっかり習慣となったシャイロックとの晩酌がなくなったのは少しだけ寂しかった。
 今日も来ないのだろうかと考えていたとき、コンコンと窓を叩く音がして、すぐにシャイロックだとわかった。バルコニーから入るのはシャイロックしかいないから。

「こんばんは、
「こんばんは、シャイロック」

 窓を開けて中へ招き入れる。シャイロックの下瞼にはうっすらと隈が出来ていた。
「大丈夫?」と訊けば、シャイロックは眉を下げて微笑んだ。いつもの優しい微笑みとは違う。大丈夫ではないのだと気付いたけれど、シャイロックが「大丈夫ですよ」と言うから、それ以上は何も訊かないことにした。
「お酒飲む?」と魔法でグラスを用意しようとした手をシャイロックが掴む。身体がベッドへ沈んでいく。シュガーをたっぷり入れたミルクティーのように甘くとろけるほど優しい顔で、シャイロックはわたしを見下ろした。シャイロックの瞳の中にはわたしだけが映っている。わたしだけが、シャイロックの瞳を独り占めしている。
 そっとキスをされて、髪を、頬を、耳を、撫でられて、シャイロックがパールのイヤリングを外した。



 甘えるような、縋るような、そんな声色だった。

「いいよ。でも、優しくしてね」

 唇にキスをされたのも抱かれたのも、これっきりだった。

 あの日からシャイロックはまた時々うちに来るようになった。
 月に数度と以前より回数は減ったけれど、晩酌だったりお茶会だったり、眠れない夜が多いわたしにまた付き合ってくれるようになった。
 シャイロックの口からムルの話が出るようになったのは最近のことだ。あの噂は本当だったらしく、月の秘密に近付き過ぎたムルは魂が砕けてしまい、シャイロックはそんなムルの世話をしているらしい。

「少しずつ言葉や情緒を覚えていくのが可愛らしいですよ」
「そう。シャイロック、何だか楽しそう」
「そう見えますか?」
「うん。それに、ムルが大切なのね」

「ムルのことを話すとき、とても優しい顔をしている」と続ければ、シャイロックはほんの少しだけ目を見開いて、一度わたしから視線を逸らして、すぐに戻した。それから、小さく息を吐くと、諦めたかのように笑う。

「ええ。大切です」

 それを聞いて、もうシャイロックとあの日のような舞踏会は開けないのだとぼんやり思った。