ムルがいなければ良いのにと思ったことがある。だって、シャイロックがあんまりムルの話ばかりしていたから。
魔法舎に向かえば、屋根に登って月を眺めているムルが見えた。わたしに気付いたムルが「あれ、だ。こんばんは、!」と月と同じような明るさの声で言う。
「こんばんは、ムル。月光浴?」
「ううん! 今日は月と踊る日!」
「そう。楽しそうだね」
「も踊る?」
「ううん。今日はシャイロックに用があって来たから」
「この間、過日鏡直してくれてありがとう」と言えば、ムルは猫のように目を細めて笑った。「見たいものは見れた?」と。わたしはそれに頷いてからシャイロックの元へ向かう。
向かおうとして、シャイロックがどこにいるのか知らないことに気付く。部屋に行こうにも、シャイロックの部屋がどこなのか知らない。困った。もう一度屋根に戻ってムルに訊こうかと見上げれば、ムルは空に浮いて楽しそうに踊っていた。月とのダンスを邪魔するのは忍びない。
「こ、こんばんは!」
誰か、他に訊ける人はいないだろうかと辺りを見回していたわたしに、赤毛の男が声をかけてきた。
「こんばんは」
「あ、急にごめんね。何か困ってるみたいだったから……」
段々と声が小さくなっていくその姿に、幼い頃の自分を思い出した。わたしが何か言おうとすると、両親はわたしの言葉を遮って、何も聞きたくないと拒絶した。かと思えば、威圧的な態度で、わたしが何か話すのをじっと見下ろしていることもあって、その度にわたしの言葉は彼のように尻窄みになっていった。言葉を発するのに勇気がいるようになってしまった。
きっと彼も勇気を出して声をかけてくれたのだろう。
「声をかけてくれてありがとう。わたしは。あなたは?」
彼は「俺はクロエ。西の魔法使いだよ」と安心したような声で教えてくれた。
「クロエ。わたし、シャイロックに用事があって来たんだけど、シャイロックがどこにいるかわからなくて」
「シャイロックなら部屋にいると思うから、案内するよ」
「ついてきて」と魔法舎の中へ向かおうとしたクロエにストップをかけた。「窓から入りたいの」と言えば、クロエは数秒沈黙。そしてすぐに「楽しそうだね」と笑った。
クロエが呪文を唱えて箒を出す。もう一度「ついてきて」と言われて、今度こそクロエについていく。
「とシャイロックは友達? それとも、こ、恋人、とか?」
「友達だよ。でもわたしはシャイロックが好き」
「そうなんだ! とシャイロック、並ぶと絵になるなぁ」
「そうかな? でも、わたしは友達のままでもいいの」
「え、どうして?」
「友達のままでも、シャイロックはわたしを好きでいてくれてるって、わかるから」
クロエは「そっか。でも、俺、応援してるよ!」と笑った。シャイロックの周りには優しい人が集まるみたい。
「ここがシャイロックの部屋だよ」と教えて貰った窓の前でクロエとは別れた。コンコンとノックをすれば、シャイロックはすぐに顔を出した。
「おや、でしたか。窓から来るなんて、どこの猫かと思いました」
「猫が窓から来るの?」
「ええ、時々。あなたのようにノックはしませんが」
「猫はノック出来ないでしょう?」
「ふふ、そうですね。それよりどうされたのです? こんな夜更けに」
「眠れないのでしたらお付き合いしますよ」とシャイロックが手を差し出した。わたしがその手に自分の手を重ねると、シャイロックはわたしを部屋へ招き入れた。
「インヴィーベル」
愛を囁くようにシャイロックが呪文を唱えると、一人掛けのソファが大きくなって、それからティーポットとカップ、クッキーがテーブルに並べられた。「今日はお茶会にしましょう」と言うシャイロックに頷いて、ソファに掛ける。
「この間、夢の話をしたでしょ?」
「ええ。あれから良い夢は見られました?」
「あのね、シャイロック。わたし、あなたが好き。わたしね、ずっとあなたの一番になりたかったの」
「だからずっとそういう夢を見てた」と言って、紅茶に口をつけた。温かくて優しい味。
「憶えてる? 初めて会った日のこと」
「憶えていますよ。眠れないあなたを晩酌に付き合わせました」
「楽しかったね。シャイロックがおやすみのキスをしてくれたから、あの日はよく眠れたの」
「ふふ、可愛らしいことを仰いますね」
「ねえ、シャイロックはわたしが好き?」
「好きですよ」
シャイロックは煙管を取り出すと煙を燻らせる。甘い、花の香りがした。
友達でも恋人でも、本当は何でも良かった。関係に名前なんていらない。
言葉を発するのに勇気が必要なくなったのは、シャイロックのおかげだ。シャイロックが、わたしの言葉に耳を傾けてくれたから。眠れない夜に一緒にいてくれた。わたしを好きだと言ってくれた。いつだって優しいシャイロック。わたしはたくさん救われてきた。
「ねえ、シャイロック。また眠れない夜には、こうやって、夜明けがくるまでお話してくれる?」
「もう、おやすみのキスはなくても大丈夫だから」と、隣に座るシャイロックを見上げれば、シャイロックはいつものように優しく微笑んだ。
「あなたの可愛らしいおねだりは、何でも聞いて差し上げたくなります」