約束はしなかった。彼女が「だって、そっちのほうが誠実だと思うから」と笑ったから。
扉の前で一度深呼吸をして、ドアノブに手を掛ける。吐き出した息は重く、緊張が目に見えるようだった。ほんの少しだけ力を入れてドアを引けば、カランコロンとベルの音と共に、彼女の「いらっしゃいませ」と言う声が響いた。
「こ、こんにちは」
「ヒースクリフ様。こんにちは」
花の入ったバケツを抱えた彼女は、それを運びながらこちらに笑いかける。運んで、また戻って、作業台の近くにいくつか置かれたバケツの一つをまた持ち上げて運ぶ。彼女の側に寄って、まだ作業台の近くに置かれたバケツを一つ持ち上げれば、彼女は慌てて「いいです、いいですから。お客様にそんなことさせられません」と言う彼女に、「俺が手伝いたいんです。……迷惑でしたか?」と返せば、彼女は眉を下げて目を逸らした。困っているときの顔だ。
「そういうわけじゃ……。ヒースクリフ様はお客様ですから……」
「じゃあ、この間シノがお世話になったみたいなので、そのお礼です」
「シノからここでプレゼント用の花束を買ったって聞きました」と言えば、彼女は少しだけ考える素振りを見せた後、頷いた。
つい最近、魔法舎でちょっとしたパーティーがあった。日頃賢者として頑張ってくれている晶様を労るためのもので、各々がプレゼントを用意した。シノは「女は花をやると喜ぶ」とか何とか言って、ここで花束を買ったのだと話していた。
「シノさん、真剣に花を選んでいましたよ。賢者様に贈ったんでしょう?」
そのときのことを思い出したのか、優しく微笑んだ彼女が言う。俺はそれに「はい。賢者様も喜んでいました」と花の入ったバケツを運びながら返した。
彼女は「すみません、手伝わせて。ありがとうございます」とあと一つ残っていたバケツを運びながら言う。
「ヒースクリフ様が手伝ってくれたので早く終わりました」
「助かりました」と頭を下げられて、もう一度シノがお世話になったお礼だからと伝える。
「そういえば、今日は何かお買いになられますか?」と首を傾げた彼女に、今日ここに来た目的を思い出した。
パーティーのとき「ヒース、あの花屋の娘が好きなんだろ」とシノに言われて、心臓がヒヤリとした。墓まで持って行こうと思っていた気持ちで、周りの人に知られたくなかったし、自分自身でも本当は気付きたくなかった。
彼女のことは両親も気に入っていて、まだ俺が賢者の魔法使いに選ばれる前、実家にいた頃、誕生日パーティーで飾る花を彼女に頼んでいた。
数年前の誕生日に、両親が「いつも花を贈ってくれる花屋さん」だと、彼女の店に連れて来てくれた。
「いらっしゃいませ」
花束を抱えた彼女の笑顔を、今でも憶えている。あの日は雨が上がったばかりで、降り注ぐ光に照らされた濡れた花が、彼女が、ひどく美しかった。一目惚れだった。
誕生日パーティーで飾られる花を、いつも素敵だなと思っていた。どんな人が作ってくれているのだろうと。花が素敵なことや、いつも贈ってくれることに、拙いながらもお礼を伝えた。そうしたら、彼女は俺と目を合わせるように屈んだ。まだ、俺のほうが彼女より背が低かった。
「初めまして、ヒースクリフ様。お誕生日のブーケ、喜んでいただけて嬉しいです。また来年もうちに頼んでくれますか?」
首を傾げた彼女は、そう言った後すぐに「あ、いえ。約束はしなくていいんです。だって、そっちのほうが、誠実だと思うから」と微笑んだ。両親から、俺が魔法使いであることを聞かされていたらしい。だから約束はしていない。けれど、実家を出た今でも、彼女に花束を頼んでいる。
作業台に花やリボンを広げた彼女を見て思い出す。実際に花束を作るところが見たいとわがままを言って、見せて貰ったこともあった。彼女は丁寧に、相手を思いながら作っていく。花は勿論、リボンや包装紙の色も、たくさん考えて作ってくれる。誕生日に贈られる花は毎年違うものだった。彼女の、そういうところが好きだった。優しくて丁寧で、それこそ花のように素敵な人。
墓場まで持って行こうと思っていた。彼女と俺では辿っていく運命があまりにも違うから。彼女を困らせてしまうかもと思っているから。
「そう思うのなら、無理に伝える必要はないだろう。でも、伝えなかったことを後悔する日がくるかもと思うのなら、別の言葉を伝えたっていい。好意を伝える言葉はたくさんあるよ」とファウスト先生からの助言が脳裏に浮かぶ。
「あの、俺と……と、友達に、なってくれませんか」
「今日はそれを伝えたくて来たんです……」と続ければ、彼女は一瞬きょとんとして、でもすぐに笑った。花が咲いたみたいな笑顔だった。
「もちろん、喜んで」と作り終えた花束を抱えた彼女が、まばゆい光に包まれているみたいに、眩しかった。
(きっと明日もベルを鳴らす)