2−1  ムル?
「やあ、久しぶりだね」

 その人が家に来るとき、母はいつもわたしに部屋に行くように言う。お部屋で遊んでいて、って。わたしは母に言われた通り、いつも部屋で一人で遊んでいた。本を読んだり、窓から外を眺めたり、お絵描きをしたり。家の外には出たことがなかった。母がいつもお外は怖いことばかりだからね、と言っていたから。
 その日も本を読んでいた。もう何度読んだかわからない本を、最初から読むのに飽きて、後ろから読んでいたときだった。扉が叩かれる音。「」とわたしを呼ぶのは、母の声。まだあの人がいる時間なのに。

「どうしたの、ママ」
「ちょっと来て。ムルがを見たいって」
「ムル?」
「いつもうちに来るお兄さんよ」

 母に手を引かれてリビングへ行くと、ソファに腰掛けたその人は紅茶を飲んでいた。わたしは今日、初めてその人の名前を知った。ムルはカップをテーブルに置くと、わたしに目を向けた。

「その子が? きみに似ているね」
「私の子だもの」
「俺にも少し似てる」
「あなたの遺伝子を組み込んだの、忘れた?」
「まさか」

 話したことがないムルと目を合わせるのがこわくて、母の後ろに隠れた。ムルは「俺、こわいかな?」と母に問う。母は「どうかしらね」と返事をしながら、わたしの背中をそっと押して、挨拶しなさいと言った。わたしは母のスカートを握ったまま、です、と呟いた。ムルは「」とわたしの名前を繰り返す。それからわたしと目を合わせるように屈んだ。

「はじめまして。俺はムル」

 宝石みたいにきらきらした瞳がわたしを見ていた。「どうぞよろしく」と差し出された手を、わたしは握らなかった。母の服を握ったまま。母が「この子ちょっと人見知りなの」と笑う。それからわたしに部屋に戻るように促した。わたしはそれに頷いて、また部屋で、今度はお絵描きを始めた