が庭で洗濯物を干していたときだった。「」と自身の名前を呼ぶ声に、は振り返った。そこにはの知らない男が──否、どこかで見たことがあったけれどにはどこで見たのか思い出せなかった。男はを信じられないものを見たかのような目で見つめていた。「ああ、やっぱりだ」ともう一度を呼ぶと、男はに駆け寄ってを抱きしめた。咄嗟のことに反応が遅れたの手から、洗濯カゴが落ちる。
「ああ、……! まさか生きていたなんて……! 随分と大きくなって、前に来たときに気付けなくてごめんよ」
を抱きしめる男の手は震えていた。はわけもわからず、身を捩って男の腕から逃れる。は恐る恐る「どなたですか……」と男に訝しげな目を向けた。男は一瞬眉を下げて悲しそうな顔をする。男が口を開きかけた、そのときだった。
「何してるの、」
街から帰ってきたフィガロがだけを見てそう言った。はフィガロのそばへ駆け寄ると「おかえりなさい」と安心したように息を吐く。震えているの肩を抱いたフィガロはそれに「ただいま」と返すと、男に目を向けた。
「この子に何か用?」
「フィ、フィガロ……なぜおまえがここに……」
「何でって、ここ俺の家だから」
「なっ……、この男と暮らしているのか?」
目を見開いた男にそう訊かれ、はフィガロの服をぎゅうと握った。それに気付いたフィガロはの頭を一度撫でてから、男に「帰ってくれる? が怖がってる」と圧のある声で言った。途端、男はわなわなと震え、大声を出した。
「、その男がどんな奴かわかっているのか?!」
男の大声に、のフィガロの服を掴む手に力が入る。
フィガロに「、家の中に入っていて」と優しく言われ、は二人を気にしながらも素直に頷いた。
「その男はっ、その男はおまえの母親をっ、」
叫び続ける男の声に、は一瞬振り返った。けれどすぐ「」とフィガロに先程よりも強い声で言われ、玄関の扉を閉めるとその場に蹲った。怖くて、けれど何が怖いのかもわからなくて、何も聞きたくなければ何も見たくない、そんな気持ちでいっぱいだった。
***
「」
件の男が来てから数日後、昼間から酒瓶を片手にしたフィガロに呼ばれたは、それまで書き物をしていた手を止めてフィガロの座るソファへ近寄った。そばに立ったままのに、フィガロは「なんで座らないの」とを見ずに言う。苛立っている。はそういうときのフィガロにはあまり近付きたくなかった。
「私、まだ書き物の途中で……」
「何書いてるの」
「……秘密です」
「隠し事するんだ、俺に」
ぐい、と腕を引っ張られたはそのままフィガロの膝に座る形になった。フィガロと目を合わせようとしないの顎を掴んだフィガロは、「何書いてるの」とつい先程と同じ言葉を口にする。は今度はフィガロと目を合わせると、も先程と同じ言葉を返した。それにフィガロの眉がピクリと動く。
はいつ殺されるか、殺されずとも酷いことをされるのではないかと気が気じゃなかった。今までフィガロに暴力を振るわれたことはないが、フィガロは例え相手が女子供でも、そういうことが出来るとは思っている。
「どうして隠すの」
「だって……」
「だって、何。言ってごらん」
「……フィガロ様だって、私に隠し事してますよね」
「それなのに、私にだけ隠し事するな、なんてあんまりです」とが続ける。ほんの数秒動きが止まったフィガロは、努めて冷静に「何のこと?」とを見つめた。は一度フィガロから目を逸らして、泣き出しそうな顔をしたけれど、すぐにフィガロと目を合わせると、大切な秘密を明かすように言った。
「フィガロ様が、私の母を殺したこと、私、知ってるんです……」