がそれほど大きくはない出版社に入社してはや数年、下積みを重ね順調にキャリアを積んで来たも気付けば30歳を過ぎ、やれ結婚だのやれ子供だの、実家に帰る度に口煩く言われるのでここ数年は帰っていない。とはいえ両親を安心させたい気持ちが全くないわけでもなく、「いい人」がいればとも思っていた。仕事柄取材で長期間家を空けることは多いし、面白い記事が書けるのなら危険を顧みず現場に突っ込むし、いつ死ぬかわかったものではない生活をしている女の貰い手があるか、と問われたら今のところの答えはノーだ。は焦ってもいない。出来ればしたい、出来なければ別に、一人でも生きていけるし……、そんな感じ。
そんなに転機が訪れたのは行きつけのバーで飲んでいたときだった。それなりに値の張るそこでは政財界の人間も顔を出す。今日の業務は終えたというのに、あちこちの席へ聞き耳を立ててしまうのは職業病だから仕方がない。それには、仕事をしている自分が好きだ。聞こえてくる単語、それを話す人物を悟られないように観察していれば不意に「レディ、お隣は空いてる?」との鼓膜を優しく穏やかな声が叩いた。は仕事で身に付けた極上の微笑みを浮かべて「ええ」と返しながら、記憶を辿る。すらりとした痩躯の、頬に傷のあるその男をは見たことがあった。確か今月の初め、時間はちょうど今と同じくらい。そのとき男の隣にいた女性は確か、どこかの大企業の取締役の娘だった。
「その口紅、とても素敵だね。あなたによく似合う」
言われて、はグラスに薄く付着した赤を指先で拭いながら「それはありがとう」と返した。男はスティーブン・スミスと名乗った。貿易会社勤めの、ごく普通のサラリーマンだと話す。も同じように自身の名前を教えれば、スティーブンは出会った記念に、と今時そんなことを本当に言う男がいるのかと思われる(少なくともは思った)台詞を口にして、新しい酒を注文した。
スティーブンはそれはもう優しかったし、始終穏やかで聞き上手で、加えて話し上手でもあった。はほんのひとときだけ仕事を忘れて酒の席を楽しんだ。実に数年ぶりだった。だから今晩のことを、は柄にもなく「最高の日」だと、本気で思ってしまったのだ。
「なぁ〜にがスミスよ! 貿易会社勤めも嘘じゃない!」
玄関先でヒールを乱雑に脱ぎ捨てたに「行儀悪いぞ」と言いながらも、おかえりのキスをしようと近付いたスティーブンだったがそれは難なく避けられた。の特技はヒールでこの街を駆け回ることだ。真っ赤なルージュとクリスチャン・ルブタンのヒールはの戦闘服と言っても過言ではない。霧に覆われたこの街──ヘルサレムズ・ロットでは異常が日常、薬ネタに政治犯罪、不良同士の喧嘩を始めとした暴力行為、は常に危険と隣り合わせで、つまりは、そう、ネタに事欠かない。言い換えれば、この街の凡ゆる情報を持っている。
があの「最高の日」が「最低の日」だと知ってしまったのはつい数日前のことで、これは一発殴ってやらなければ気が済まない、と何度も足を踏み入れたスティーブンの部屋にアポイトメントは取らず上がり込んだ。
「君だって社では下っ端の雑用係だって嘘吐いただろ」
「だってあなた……なんか、キャリア積んだ女より世間知らずで馬鹿っぽそうな女のほうが好きそうだったんだもの!」
「僕そんなふうに思われてたのか?」
「私に近付いたのだって、この女ならベラベラ喋りそうだなと思ったからでしょ!?」
「そうだけど、君は何にも喋らなかったじゃないか」
「どこで誰にネタを横取りされるかわからないのに、ちょっと見た目が良いだけの男にベラベラ喋るわけないでしょ」
は“ちょっと”の部分を強調して、言いたいことを言うだけ言うと勝手知ったる冷蔵庫の中身を物色してお高いワインボトルの中身をその場で飲み干し、ダンっとその瓶をキッチンに叩き付けた。
「別れましょ、スティーブン」
ここで少しスティーブンの話をするなら、二人が出会ったあの日は彼にとっては「最低な日」だった。に近付いたのはの持つ情報が欲しかったからで、けれど先述の通りは恐ろしく口が固く、酒にも強かった。日を重ねて徐々に懐柔しよう、などと考えていたがそうなる前に別のルートから情報は手に入ったからと関係を持つ必要はなくなった。それはが真相を知るよりずっと前のことだ。だからの「別れましょ」はスティーブンにとっても好都合だ。そのはずなのに。
「嫌だ」
「はあ?」
「俺、君のこと本気で好きみたいだ」
だから別れたくない、との手を取って引き止めようとしたが、はそれも難なく避けた。取材中、下卑た男共からのセクハラを回避するべく身に付けた技だ。「ちょっと待ってくれ」などと言う弱々しい声を無視して、は長い廊下を早足で歩き、脱ぎ捨てたルブタンに足を通せば背後から「それ、君には似合わないよ」。それが余計な一言であることを普段のスティーブンなら容易く理解出来るが、今彼は動揺していた。自分でも驚いているくらい。は仕事で培った、極上の微笑みを添えてスティーブンを振り返る。
「次はもっと可愛げのある男を捕まえるわ」