02 女の人生

イートインで注文したBLTサンドを片手に、は新聞に目を通す。世界は目まぐるしく変わり、情報は凡ゆる場所から手に入る。決して行儀が良いとは言えないのその行いを咎める者はいなかった。つい最近までは。

「昼休憩まで仕事とは熱心だな」

向かいの席に掛けた、と同じBLTサンドを手にしたスティーブンを、彼女は一瞥すると新聞に目を戻した。三分の一も残っていないホットコーヒーのカップに付着した赤を見たスティーブンは、には真っ赤なルージュよりもうすこし薄めの、愛らしいピンク色のほうが似合うのにと思ったが言わなかった。なぜなら彼は同じ轍は踏まない主義だから。これ以上失敗を重ねたくないとも言う。

「言っておくけど、僕は別れたつもりはないからな」
「あっそ。私はつい最近、スティーブン・スミス……失礼、名前を間違えたわ。スティーブン・A・スターフェイズっていう男と別れたの」
「……君を騙していたことは謝るよ」

眉を下げて縋るような表情のスティーブンに、は溜息をひとつ溢すと残りのコーヒーを飲み干し、パン屑の残った包みをぐしゃぐしゃに丸めてから席を立った。恋愛ごとにおいてはスティーブンのほうが何枚も上手で踏んできた場数も違う(彼の今までの女性関係を恋愛という言葉で括って良いのかは不明だが)。しかし年の功ならのほうが上、加えては大変に慎重な女である。同じ轍を踏みたくないのはも同じだ。

「悪いと思ってるなら、二度と私に近付かないで」

はルブタンのヒールを鳴らして店を後にした。今度はスティーブンを振り返らずに。
そもそも、あんな色男が自分に本気になるのはおかしい。はスティーブンと付き合っていた当時からその考えは頭の片隅にあった。しかしスティーブンとの時間は心地良く、それまで仕事一筋だったにとって新鮮で落ち着く時間だったし、スティーブンのことだって本気で好きだったから疑いたくなかった。疑惑が確信に変わった日、はやっぱりかと落胆が半分、よくも騙したわねと怒りが半分だった。


ブシュロンのピアスもディオールの香水もシャネルの口紅も、どれもには色褪せた思い出でしかない。テーブルの端に乱雑に置かれたそれらを見て、捨てられない自分が腹立たしい。「君に似合うと思って」と渡されたそれを、以前の──スティーブンの正体を知る前──は喜んで受け取ったが、今はもう違う。否、こちらが元来のであり、男にブランド物を貢がせる趣味はないのだ。前のそれは、スティーブンが喜んでいたから、受け取っていたに過ぎない。今思えば、あれも全部に情報を吐かせるために過ぎなくて、そこに愛とか恋とか、そういった類の情なんてなかったのだろう。スティーブンがいつから本気になったのかは知らないが、一度疑いの目を向けてしまえばいくら本気で口説かれようと信じられなくなるのは当然のことで、けれどもの頭からは不本意ながらあの縋るようなスティーブンの声と表情は消えてくれない。馬鹿馬鹿しい。男に縋るのも、縋られるのも、が望んだ人生ではない。
男尊女卑が根強く残る組織は少なからず存在する。が大学を出てから入社した出版社もそのうちの一つだ。女は馬鹿なふりをしたほうが生きていきやすい。権力者は男が半数以上を占め、そこに気に入られれば昇進も昇給も容易かった。けれどは生まれ持った性に左右されなければいけない人生など真っ平御免だ。だからは環境に負けじと「女性の権利」を主張してきたし、実力で今の立場に昇り詰めた。クリスチャン・ルブタンのヒールは初任給で買った、当初は背伸びをするためのものだった。それがいつしか彼女の個を主張する戦闘服になった。
馬鹿なふりをする女なんて馬鹿だ、そう思っていたのに。スティーブンと甘いひと時を過ごしていたあの頃、は馬鹿な女のふりをした。そのほうがスティーブンは好いてくれると思ったから。社会に出てはや数十年、気付けば三十半ば。は自身の生き方がわからなくなっていた。