指定された場所は落ち着いた雰囲気のレストランで、そこはが仕事でもプライベートでも何度か足を運んだ所だった。お気に入りのひとつである。はそれをスティーブンに言ったことはないが、彼のセンスを考えればそのあたりのレストランを選んでくるのは容易に想像出来た。はスティーブンのセンスは信用している。基本的に「ハズレ」がない。
約束の時間は夜の九時だったがの腕時計の長針が6を過ぎてもスティーブンは姿を現さなかった。は憤りよりもスティーブンの身に何かあったのでは、と心配が勝って、そんな自分にまた溜め息が出そうになる。恋は盲目で、愛は人を愚かにする。は未だ消せずにいるスティーブンの電話番号をタップした。二回ほどかけても繋がらない電話に、今日はもう帰ろうとが歩き出せばポツポツと雨が降り出し、数秒もしないうちにそれは叩きつけるような土砂降りに変わった。HLの天気予報は驚くほどあたらない。
スティーブンは今日、花屋で花束を予約し、店のドレスコードを意識した新しいスーツをおろし、へのプレゼントも用意した。喜んで貰えるかは兎も角、の気を引きたい一心だった。スティーブンは他に方法を知らない。恋愛はいつだって自己中心的だ。それが本気であればあるほどに。
珍しく定時で帰ろうとしたスティーブンだったが、街中では事件が勃発。連絡をする暇もないくらい対処に追われ、気が付けば約束の時間を過ぎたどころか日付が変わろうとしていた。花屋もレストランも閉店、おろしたてのスーツは泥で汚れ、プレゼントの箱は潰れた。スティーブンが後始末を終えた頃には土砂降りの雨は上がり、街は再び霧に覆われる。待ち合わせのレストランに行ってもには会えないだろうと思ったが、スティーブンの足はなぜかその場所へ向かっていた。
「げっ、あなたこんなとこで何してるのよ」
閉店し、灯りの消えた店先に誰もいないことを確認して、潰れてしまった箱を捨ててしまおうか考えるスティーブンの耳に、聞こえるはずのない声が聞こえて、スティーブンは緩慢な動作でを見た。
「……」
「うわっ、泥だらけじゃない! 何したらこんなぐちゃぐちゃになるわけ?」
「君なんで……」
「あなたが約束すっぽかすから近くの店で飲んでたの」
「すっぽかしたわけじゃ」
「冗談よ。仕事でも入ったんでしょ。それよりさっさと帰ってシャワーでも浴びたら?」
「歩けない」
「はあ?」
「歩けないんだ……」
のクリスチャン・ルブタンは泥に塗れ、鮮烈な赤色は陰鬱な茶色に変わり、トップリフトがすり減っていく。スティーブンの家の玄関前で、はそれまで引いていた彼の手を離して踵を返そうとしたが、それよりはやくスティーブンに手を引かれて中に引き摺り込まれ、玄関扉に身体を押し付けられた。スティーブンが住居に選ぶだけあって閑静な住宅街、加えて防音性に優れた家であることをは十分知っている。ちょっと、と抗議の声を上げたの唇は塞がれて、スティーブンの唇に仄かに赤が移る。の両足を割るようにスティーブンの膝がそこへ入り込み、が抵抗しようと踵を上げればヒールが脱げてそれは乱雑に床に転がった。土と水を含み薄汚れてしまった、の戦闘服。
「んぅっ……、ちょっと、いい加減、に、……」
穏やかな明かりが照らす玄関先、を見下ろすスティーブンの表情は今にも泣き出しそうで、だからは思わず口を噤んでしまった。
スティーブンは女性に甘い言葉を囁くのも優しい態度で接するのも苦ではなかったし、状況を素早く判断して相手の望む答えを的確に導き出すのは簡単で、今までだってそうしてきた。だというのにを前にすると言葉は出てこないし彼女に触れようとする指先は震えっぱなしだ。今しがた強引にキスをしたことを、スティーブンはらしくもなく後悔した。
「君が好きなんだ」
スティーブンは消えそうなほど小さな声でそう言って、ずるずるとの肩に自身の頭を預けた。
当時の全てが嘘だったのかと訊かれたら、は「いいえ」と答えるだろう。無論本音より建前や社交辞令のほうが圧倒的に多かったが、スティーブンの全てがそうだったとはには考え難い。嘘の中に本音が数パーセントあったとして、それがスティーブンの計算だったとしても。スティーブンが今、に嘘を吐く必要はない。だからその言葉が本気であることをの頭は理解しているが、気持ちはいつまでも追い付かなかった。