廊下に転々と散らばる白百合の花弁を拾い上げながら、スティーブンは歩を進める。明かりのついていないリビングに足を踏み入れたとき、彼の視界が真っ先に捉えたのは投げ出された女の足であった。床で寝ていないだけいくらかマシか、と思いながら拾い上げた花弁を屑籠へ入れようとしたが、そうするより先に「ベッドで休んだら?」と女に声を掛けていた。それから白百合は塵へと変わる。
「うぅん……」とソファの上で唸り身動いだ女は、ボサボサの髪も崩れに崩れた化粧もそのままに起き上がる。焦点の合わぬ視界にテーブルに置かれた煙草が映る。乱雑に置かれていたそれに手を伸ばし咥え、あたりを静かに見回す。その様子に気が付いたスティーブンは彼女の足元に転がる燐寸を拾い上げると慣れた動作でそれを擦り、彼女の口元に火を移した。寝起きでよく吸えるものだと、感心とも呆れともいえる感想を抱きながら。
「献花、今年も出来なかったのかい」
研究が上手くいっていないのだと、彼女がつい二日前に言っていたことをスティーブンは思い出す。彼女のストレスが溜まるのと比例して煙草の消費量も増えていたが、スティーブンにはそれを咎める権利がない。
つい先程塵と化した白百合の花弁を思い出しながらスティーブンは問いかけにも、独り言にも聞こえる声色で言う。彼女は不機嫌な表情を一切隠さず煙を吐き出すと「そうよ」と短く返した。
彼女は人形を作っている。ただの人形ではなく、アーティフィシャル・インテリジェンス──通称AIを搭載した人形を。
吐き出した煙が天に昇ってゆくのを眺めながら、彼女は徐に口を開く。それは独り言のようにも、夕食の準備をするべくキッチンに立ったスティーブンへの問いかけのようにも思えた。
「あの子、寒くなかったかしら」
窓の外では雪が降り始めていた。HLの天気は変わりやすく、天気予報は一番アテにならない。窓の外に目を向けたままの彼女に、スティーブンが何かを返すことはなかった。自身に向けられていると明確にわかる言葉以外には、彼は彼女に何も返さない。彼女も余計なお喋りを必要としていないからだ。彼女が二本目の煙草に手を伸ばしたとき、スティーブンは「夕食にしよう」と彼女をダイニングテーブルへ促した。寒い雪の日はクリームシチューとバゲット、デザートはチョコレートがとろけるフォンダンショコラだと、妹がよく口にしていたのを彼女は思い出す。今、彼女の視界の端に映る料理はどれも完璧だった。存在しないはずの記憶を思い出す。確かにそこには、あの日の記憶が映っている。
彼女には妹がいた。よく似た双子の妹。妹はHLで運命的な出会いを果たし、やがて二人は結ばれた。「寒い雪の日はクリームシチューなんだろ」と微笑む顔は、いつだって妹に向けられたもの。妹は彼を愛していたし、彼もまた妹を愛していた。けれど妹は死んだ。──冷たい氷の中で。
短くなった煙草を灰皿に押し付けて彼女は膝を抱え、フローリングの冷気を吸った裸足の足先を撫でてから立ち上がる。テーブルに並べられた料理は矢張りどれも完璧だった。「食べよう」と微笑むスティーブンさえも彼女には非の打ち所がない、完璧な、──。
透き通った青が視界を埋め尽くす。目に入る全てが光の粒子を浴びて輝き、彼女の目を痛いほどの透明が支配する。同時に、人々が倒れ屍と化していき透き通った青に赤が混ざっていく。突然のことだった。だから彼女は事態を飲み込むのに時間を要したし、それを咀嚼したときにはもう手遅れだった。屍の先に、たった一人、彼女が愛した男が立ち尽くしていた。記憶はそこで途切れる。それ以上の成果を得られたことはない。
「最後の晩餐もクリームシチューだった」
あの子はそれが好きだったから、と静かに話したスティーブンは食事を始める。彼女はそれにただ頷くと同じように食事を始めた。
「寒い雪の日はクリームシチューにしようって言い出したのはあの子だったの」
あたたかくて優しい味が口内に広がり、柔らかく舌触りの良い鶏肉は力を入れずとも噛み砕ける。「こんなに上等な肉ではなかったけど、私もあの子も母の作るシチューが大好きだった」と彼女は淡々と語る。上等な肉ではなかったと彼女は言うが、スティーブンが好む肉よりは上等ではないだけで一般家庭の目線で考えれば十分に上等な肉だろう。ほろほろと崩れる鶏肉に舌鼓を打ちながら、スティーブンは耳を傾ける。相槌も返事もしない。そして彼女の話が一区切りしたところでいつものように問う。
「君の研究について、詳しく聞かせてくれないか」
そう聞かれたとき、彼女は決まって「秘密」と返していた。けれど彼女から発せられた言葉はスティーブンの予想していた言葉ではなく、しかし問いかけに対する答えでもなかった。
「テセウスの船を知っているでしょう?」
「ああ。船のパーツが全て入れ替わったら、過去のそれと現在のそれは同じものと言えるかどうか、というパラドックスの一つだろ」
彼女がスティーブンを見つめる。スティーブンはその瞳に見つめられているとき、心の奥底までを見透かされているような気がしてならなかった。二人の前に置かれた白く汚れた皿とは真反対の黒が、スティーブンの視界に映る。不意に彼女が立ち上がり、その身を乗り出したかと思えばスティーブンの視界を手のひらで覆う。最後に彼の視界に映ったのは、汚れた皿に入り込む女の長い黒髪であった。
透き通った青が視界を埋め尽くす。目に入る全てが光の粒子を浴びて輝き、彼女の目を痛いほどの透明が支配する。否、これは自分自身の視界だ。状況を理解したときには何もかもが手遅れだった。屍と化した人々を改めて見ている暇など彼にはなかった。屍の先、そう遠くない場所で愛する女もまた帰らぬ人になっていたから。それを認めたとき、彼の胸中に渦巻いたのは悲哀よりも安堵のほうだった。何の罪もない人間を殺さなくて良かった、と。
暗転。
雨が降っている。道端に出来た水溜りに波紋が広がる。今朝の天気予報では快晴だと言っていたが、きっと中らないだろうという予感だけは見事に中った。傘で狭まった視界の端に女の足先が映る。赤いピンヒールの足先は彼がこれまで幾度も目にしたもの。
「こんばんは。素敵な夜ね」
「君……どうして……」
淡く濡れた唇が花の如く開く。口角を僅かに上げた花は、果たして何処から飛んできた種子か、彼には確かめる術など無かった。
(白百合と雨 / 20221106〜1229)
空木春宵 / 感応グラン=ギニョル