タタン、タタンと規則正しい揺れが続いている。座った座席から感じる振動は時に心地よく、時に煩わしい。窓の外に目をやれば粉雪が舞っているのがわかる。陛下の御体調はいまいち優れないのかもしれない。今はもはや離れてしまった王都の宮殿に佇む彼女の姿を思い返しながら、足を組み替えて視線を車内に戻した。
コンパートメントの中は静かだった。時折他のコンパートメントや、2,3等客室から漏れ聴こえてくる賑やかな空気からは隔絶されており、ピンと空気が張り詰めたように静寂で満たされている。自分はもちろん、向かいに座る王宮の役人たちも何一言発さない。単に無口なのか、それとも伯爵家のオレを前に口を聞けないのか、考えたところで大した問題ではない。こちらだって此奴等と会話を楽しもうだなんて気持ちは持ち合わせていない。静けさに聴覚を預け、また視線を外に向けようとしたところでこちらに向かってくる足音に気づいた。こつ、こつと列車の揺れに合わせるような、規則正しいそれは次第に近づき、この個室の前で止まった。コンコンという軽い音が聞こえ、「伯爵にご挨拶に伺いました」と女の声が聞こえた。
「何者か」
目の前の役人がようやく口を開いた。思っていたよりも低い声だ。対する扉の向こうの女は、軽やかな声音で「辺境伯家が第一子女、に御座います」と答える。「か」と思わず声を上げると「カミュ様がいらっしゃると伺いご挨拶に」と変わらずたおやかな様子だ。無言で役人共に目配せし、扉を開けさせる。眼前に現れた昔馴染みは、シンプルな形ながらも美しいドレスを纏っていた。この国では一般的なその姿に、逆に違和感を覚える。以前の彼女といえば、いつも男装とも言えるようなパンツルックであった。今は下ろしているつややかな髪は結い上げられ、それが一層美しい顔立ちをした男の様に見せていたのを思い出す。目の前の彼女にその面影は少しも感じられない。
「少し席を外せ」
手短に告げ役人たちを立たせる。静かにコンパートメントを出た二人と入れ替わるようにが入室し、上品な所作で向かいに掛けた。個室の扉は閉ざされ、二人だけの空間が出来上がる。美しい笑みを口元にたたえたまま、彼女が先に口を開いた。
「久しぶりね、カミュ。何年ぶりかしら」
「貴女のお父上が辺境伯に任命された時ですから、3年前でしょうか」
「もうそんなに」と穏やかに話す様子にはやはり3年前の少女の面影があるものの、そこには一抹の気怠さが見え隠れして、妙にこの人を色っぽく見せる。昔から時折そんな表情を覗かせることがあったが、顔を合わせなかった期間のせいか、より大人の女性らしく感じた。「そうですね」と相槌を打つ自分も、今や地位は自分の方が上だというのにかしこまった口調になってしまう。二人きりだからか、彼女も以前のように気さくな言葉を使う。
「3年も経つと、男の子ってこんなにも変わってしまうのね。……見違えたわ」
「貴女は変わらずお美しいですよ」
「まあ、口も上達したのね」
かつて彼女の父親は、王都で同じく伯爵の地位を持って女王陛下に仕える一人であった。王宮内での地位は高かったが、それゆえに他の貴族に疎まれ、王宮での些細な失態の責任を取らされて遠隔地を治める辺境伯となったのが3年前。彼の一人娘であった五つ年上の彼女も、それに伴い王都を去っていた。
「こんなところでお会いするとは思いもいたしませんでした。……なぜこちらに?」
「近々王都に戻ることが決まったから、……そうね、父の代わりにお屋敷を見に行っていたのよ」
どこか物憂げな表情で、窓の外に目を遣りながら彼女が答える。その様子にまた僅かに違和感を感じるが、その正体がわからない。すぐに頭を切り替えて、「以前住んでおられた屋敷ですね」と返す。なんとなく聞くことができなかったが、もしかしたらこのドレス姿もそのどちらかといえばプライベートと言える用事故なのかもしれない。彼女の横顔を見つめながらそんなことを考えると、はちらりと視線だけ流して寄越しながら呟くように訊ねる。「あなたは?」
「女王の命ですので多くは語れませんが、東方の街の視察です」
「そう、もう立派にお仕事をしているのね」
3年前は、あんなにも可愛らしい男の子だったのに、と、微笑むその顔は芸術品か何かのようだ。つい見とれている自分に気づき、悟られぬよう僅かに視線を逸らす。窓の外の景色はものすごい速さで移り変わり、過ぎ去る時そのものにすら思えた。
「王都に戻られたら、漸く共に仕事ができますね」
「……私と?」
「はい。……幼い頃から、それを小さな目標としておりました」
今でこそオレの方が上であろうが、その昔は剣技も知略も五つ年上の彼女には何一つ勝つことができなかった。いや、今もその頭脳は彼女のほうが数段上かも知れない。この人には何故か勝てるような気がしない。あれほど努力を重ね、この地位を手に入れ、今も技術を磨き続けているのに。その頭脳・剣技の鮮やかさを買われた彼女は、3年前も王都で女王付きの女官として、例の男装地味た身なりをして働いていた。それをよく思わない役人は大勢いたが、彼女はその手腕で王宮中を黙らせた。幼い自分にも、そんな彼女の姿は鮮烈に憧れの対象として焼きついたのをよく覚えている。
それが今、その背を追うのではなく、真っ向から向かい合っている。
「私は、カミュがこんなところまで来なければいいと思っていたわ」
「どういう意味です」
「貴方はとても無垢で真面目で高潔で……だから、こんなところに来なければいいのにって」
「貴女と肩を並べられたことを、私は誇りに思います」
きょとん、とした顔をしてオレの顔を凝視する。オレはいたって真面目に話しているつもりなのに、そんな表情をされると急に照れくさくなる。「貴女は、私の憧れだったのです」まるで神聖な告白かのように静かに漏れ出た言葉は、本当に今にも消えてしまいそうなものだった。はその不意をつかれたような顔を僅かに赤く染め、「カミュにそう言ってもらえるなんて」とはにかんだ。
「とっても嬉しいわ。とっても……。あの聡明なカミュが」
「きっと聡明さでは今もあなたには勝てません」
「いいえ、買いかぶり過ぎよ。……でも本当に、私のほうが誇りに思うわ」
先ほどまでの物憂げな顔からは一変、明るい表情になる。これまでの付き合いでもあまり見たことのないその晴れやかな表情に、胸が締め付けられたような気持ちになる。今、確かに俺はの前にいるのだ。あの、憧れ、慕った彼女の前に、一人前の男として。そしてこれからは共に女王に仕え、共に働くことができる。柄にもなく気分が僅かに高揚しているのが自分でもわかる。
「王宮には、いつ入られるのですか」
「王宮…?」
「王都に戻られるということは、貴女もまた王宮仕えになるのではないのですか?」
お父上と共に、勝手にもう頭がそう思い込んでいた。またきょとんとした表情を見せた彼女は、「ああ」と呟くとすぐにあの物憂げで、どこか曇ったような顔に戻っていく。「私、結婚するの」
「……今、なんと、」
「結婚するの。……だからもう女官にはなれないわ」
今度は頭を勢いよく殴られた心地がした。頭の中が散らかって、うまく言葉にならない。「だれ、と」とかろうじて問いかけた言葉は掠れてひどく不格好だった。変わらずたおやかな口調で、目を伏せながらは相手の家名を口にする。王都の有力貴族の一人だった。王宮内でも何度か顔を合わせているが、いけ好かない男だったのを覚えている。相手がわかれば今度は「どうして」という思いに脳が満たされるが、理由は聞かずともほどなく思い当たった。辺境伯の一人娘と王都の有力貴族の息子なんて、彼女の父の栄転と、そして辺境伯家を取り入れるといった利害の一致からなる単なる足し算の契約だ。特に彼女は一人娘で家を背負うことは難しい。辺境伯の人柄からして娘を道具にとはしないだろうが、それでも取り残される愛娘に後ろ盾を、とは考えるに違いない。さっきまで呑気に「プライベートだからドレスなぞ着ているのだろう」と思っていた自分が憎い。違う、彼女は、政略結婚させられる相手に会うべく、王都に出向いていたのだ。
「つまり、あなたは、」
「いいえ、違うのカミュ。望まない結婚ではないわ」
敏い彼女はすぐに俺の言わんとしていることを察したらしく、手を振って制止する。
「父も私を思ってのことだし、私だって父を、あんな辺鄙な街に閉じ込めたままにしたくないの。だから」
「だから、だからいいのか?」
逸る感情を止めきれず口をついて出た言葉は、どこか吠えるような響きだった。怯んだようにが口を閉ざす。
脳裏に自らの両親のことがちらつかないわけではなかった。だが、それ以上に、こんな、聡明で強い女性を、家同士の利のために鳥かごの中に閉じ込めてもいいのだろうか?あんなにも生き生きと、女官として陛下に仕えた女性を。俺の憧れた人。ずっと背を追ってきた人。そして恐らくは、――恋い慕った人。
「逃げよう」
気づけば身を乗り出し、彼女の手を取っていた。「いけない、このままでは。聞かせてください、。貴女のその結婚は、本当は「望まないもの」なのではないですか?」早口に畳み掛ける俺の言葉に、は瞳をゆらゆらと揺らめかせながら、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「私、は」
「本当にいいのですか?父上にために自分を押し殺して」
「カミュ、ちがうの」
「本当の気持ちを教えてください」
「ほんとうに、私のことはどうでもいいの」
「どうにも俺にはそう思えない」
微かに震える手を包み込むように握り、しかと目と目を合わせる。タタンタタンと、変わらず均一な揺れと音がコンパートメントに満ちている。電車の外はいつの間にか雪の気配が濃くなって、空はどんよりと分厚い雲を集めている。知らず知らず両の手には力が込もり、彼女の華奢な指を折ってしまわないようそっと握り直した。
「お願いします。逃げて、……否、俺が連れ去るから、」
電車が一際大きく揺れた。静まりきった空間に、まるで別の世界から聞こえるように喧騒は遠く、表にいるであろう役人の気配も遮断されて、まるでここだけ世界から切り離されたように感じる。むしろ、切り離されてしまえばいい。
「攫われて下さい、」