暑い、と思って目が覚めた。
まだ覚醒しきらない頭をゆっくり起こし、顔にかかる髪に手櫛を通しながら立ち上がる。素足に冷房で冷えたフローリングが心地いい。ひたひたと音にならない音を立てながらキッチンスペースまで向かい、しなだれかかるように冷蔵庫に手をかけた。薄暗い部屋に庫内で灯るオレンジの光が漏れ筋を残す。よく冷えたミネラルウォーターを手にして、ひと口分喉の奥へ流し込む。体の中を冷たいものが通っていく感覚。生きている、という感じがする。私が身体を動かさずとも、その中でたくさんの器官が、細胞が、ひとつずつ各々の役割を全うして、私という人間ひとりを生かしている。うっすら汗をかき始めたボトルを庫内に戻そうとして、はたと止まった。ボトルの首を持ったままだらりとぶら下げ、冷蔵庫を閉じてまた灯りを喪った部屋を横切っていく。ひたひたと耳に届く私の足音は、まるで幽霊か実体のない化物を想像させた。
洗面台のある脱衣スペースを抜け、磨りガラスの扉を開ける。中心で折れるようにしてたたまれたそれは相応の音を立て、わたしの来訪を告げるようだ。決して広くはない白を基調としたバスルームは、換気用の小さな滑り出し窓から入る光でほんのわずか明るさを得ていた。外は夕暮れどきか、仄暗い色を映している。こちらも磨りガラスがはめ込まれているから、外の景色を見ることは叶わない。風呂場らしくここは蒸し暑い。わたしは手を伸ばし換気扇のスイッチを入れる。途端に低いヴーンという音が響き始め、正常にそれが動き出したことを示した。ゆっくりとミネラルウォーターのボトルを手にしたまま浴槽に近寄り、立ったまま浴槽の蓋をひと思いに開ける。白い浴槽の中には男が一人、膝を抱えるような体勢で横たわっていた。

「暑い?」

狭いバスルームに私の声が反響する。男は閉じていた目を開き、視線だけをこちらに寄越して何か言いたげな顔をする。声が出せないのだろう。当然だ。私がその口を粘着テープで封じたのだから。

「お水、持ってきたの。飲みたい?」

ややぐったりと顔色が悪く見えるその男は、力なく首を縦にわずかばかり動かした。私は愈々うれしくなって「そっか」とやや上擦った声で答えた。ボトルのキャップをひねり、「ほら」とかざす様に持ち上げる。

「飲んで」

びちゃびちゃびちゃ、と、透明な液体が落下していく。
ラフなリネンの白いシャツに飛び込んでいったそれは、染み込んでじわじわ模様を広げていく。驚いたように目を見開いた男の表情をみて、私は喉だけで笑う。「ダメじゃない、零したりして」意地悪げに紡がれる言葉に我ながらなんと理不尽なことかと思ってしまった。男は濡れた衣服が気持ちわるいのか身を捩ったが、すぐに諦めて動かなくなった。彼の両手足は縛られて身動きがとれないようにしているのだ、当然だ。

「ねえ」

甘ったるい猫なで声が聞こえるが、ここには私と彼しかいなくて、彼は声を封じられているのだから、それを発しているのは必然的に私しかいない。しゃがみこんでバスタブの淵に両腕を寝かせる。「なにか話してよ、ねえ」そうは言ったって、彼の口には物々しい布製の粘着テープが貼り付けられているのだ、なのに、話してだなんて、なんて気の触れた注文だろう。私の顔に張り付いた微笑はこの男にどう映っているのだろうか。私はこてんの自分の腕の上に顎を乗せて傾げる。

「嶺二」

その響きは、身震いするほど甘美で、底知れぬ恐怖を秘めたように恍惚としていた。名を呼ばれた男は、また私と視線を交える。その様があまりにも哀れで、わたしはそっと彼に手を伸ばした。粘着テープの端を爪で引っ掛けるようにして、そのままつまんで少しずつ少しずつ剥がしていく。皮膚の薄い唇はより慎重に、それでもかぶれてしまったのかテープの痕は赤く腫れたような色を滲ませていた。「痛い?」と訊ねると、嶺二は解放されたばかりの口で「ヘーキだよ」と答える。その、まったくもっていつも通りな調子に、わたしは胸の内を引っ掻かれたような気持ちになる。

「水、もらえないかな」

きっと表情を無くしている私に、嶺二は矢張りいつもと変わらない軽やかな口調で話しかける。「好きなだけ飲めば?」と苛立ちを隠さずボトルを浴槽の底に置いてみせると、「手、塞がってるんだ」と困った顔をしてみせた。そんなこと当然知ってる。知ってるどころじゃない、わたしがそうしたのだ。

「いいよ」

わたしは置いたばかりのボトルを持ち上げ、ひと口、ふた口と口に含む。そのままバスタブに足を踏み入れ、覆いかぶさるように嶺二に跨る。ずいと至近距離に顔をやっても、嶺二の顔色は変わらない。ああ、そんな顔が見たいんじゃない。腕を回して嶺二の後頭部を髪ごと掴む。押し付けるように唇を重ね、少しずつ口に含んだ水を嶺二の口腔へ押し込んでいく。受けきれない水がぼたぼたと漏れて落ちて彼の服をまた濡らしていった。急に口移しで飲まされたからか、その口から水だか唾液だか、それともそれが混じったものか分からない透明の液体を垂らしながらけほけほと噎せている様を見ると、急速に私の中の嗜虐心が満たされていったのがわかった。

「ねえ、つらい?」

未だ苦しげに眉根を寄せるその顔に手を這わせ、わたしは訊ねる。

「みじめ?苦しい?助けて欲しい?悔しい?怒ってる?ねえ、」

「教えてちょうだい、」と嬉々とした私の声が、機械音がわずか響く浴室に重なる。男は苦しげな顔のまま顔を上げて、私としっかり視線を絡ませる。「君は楽しい?」未だ余裕を孕むその声音に、私の体がぴくりと揺れて硬直した。

「君の方が、よっぽど苦しそうだ」

自分の置かれている状況が、分かっていないのだろうか。気づいたときには「うる、っさい!!」と悲鳴のような叫び声を上げて、わたしはシャワーヘッドを握り締め嶺二の頭に振り下ろしていた。一筋血の赤い色がその微塵も崩れない顔の上に線を描く。「ほら、」心なしか体はぐったりと力を抜いたが、その目だけが強く私の視線を離さない。「つらそう」うるさい、ちがう、私のほうが、私が、この男の全てを握っているはずなのに。

「そんな顔しないで、…困っちゃうな」

どうして私がこの男に囚われているような気にさせられてしまうのだろうか。


No Verao, As Noites