「雨だね」

スタジオを出てすぐ、頬にぽつり、とした感触があった。「え、うそ」と隣で声が上がる。「嘘じゃないよ」と返すと、はげんなりと肩を落としながら「傘持ってないんだよ」と情けない声を出した。

「今日朝ニュース見なかったの?降水確率70%って言ってたじゃない」
「そうなの?今日寝坊してニュース見てないんだ」
「バカじゃない。自業自得」

ツンと澄ましてそう言ってやると、は「そんなあ」とさらにうなだれた。

「でも降ってる?」
「さっき雨粒が当たった感触がした。雲の様子を見てももうじきに強くなるよ」
「困ったなあ、荷物濡らせないよ。ちょっと走る?」

ぎゅっと大きな黒いナイロンバッグを抱え込むようにして、がこちらを見る。中身はおそらく彼女の商売道具でパンパンなのだろう。事務所付きのヘアメイクを生業としている彼女は、いつも荷物が多い。メイク道具やコスメをそれぞれその場で最適な形に仕上げられるよう数種類ずつを常に持ち歩いている。スタイリング剤も同様だ。一般的に小柄で華奢に分類される彼女の体格に、そのバッグはいつもアンバランスに見えた。
今は雑誌のインタビューの仕事の帰り、一度事務所に寄ってカルテットナイト全員で集まってから、一緒にテレビ番組の収録に向かうことになっている。近くのスタジオだから、と徒歩で一緒に歩いて戻っているが、タクシーを拾ったほうがよかったかもしれない。

「その荷物で走れるの?」
「大丈夫だよ、いつも持ち歩いてるし」
「ていうかその大きいバッグに折りたたみ傘くらい入れてないの」
「うーん、事務所にならあるんだけどなあ」
「なんで」
「先週雨降った時に事務所のロッカールームで開いて干してたんだけど、そのままおいてきちゃったんだよねえ」
「やっぱりバカなんじゃないの、

はあ、とあからさまにため息をついてみせる。隣の彼女は「そんな風に言わなくってもいいじゃん」と拗ねたように口を尖らせている。
本当は、自分の鞄に、潜ませてあるのだ。ボクだって決して雨には強くないから、急なそれにも対応できるよう折りたたみ傘はいつも持ち歩いている。こんな梅雨時は特にそうだ。
事務所まではあと15分足らずだろう。走ればの足でも10分はかからない。けれどいつ雨が本降りになるかわからないし、わからないと言ってもそれはもう数分後の未来の話だ。今からタクシーを拾う?できるならそうしたいけれど、なかなか空車のタクシーが通りかかる様子はない。走る?けれど荷物を抱えた彼女は危なっかしい。自分だけ傘をさす?そんなことは、できない。
傘を、差し出せばいいのだという答えは自分の中でとっくに出ていた。傘を差し出してシェアすればいい。いわゆる相合傘というやつ。けれどなかなかそれを選択できないその理由は、答えが出ない。折りたたみ傘では小さいから、だとか、なんだか気恥ずかしいから、だとか、そんな理由でないのは確かだ。

「藍くんは?傘もってないの?」

絶妙なタイミングでが問いかける。それを今、どうしようか、考えているのに。計算して処理しようとしているところなのに。

「ボク?ボクは、」

曖昧に濁しながらの顔を見やる。自分より背の低い彼女が、やや上目遣いでボクを見ている。ぽつり、とまた頭に水滴があたった感じがしたと思ったら、ぽつりと同じようにの鼻頭に水滴が落ちる。「、鼻」と指を伸ばすと、気づいていないらしい彼女は屈託なく首をかしげてボクを見つめた。

「あ、アイアーイ、お疲れちゃーん」

この曇天に不釣り合いな能天気な声が飛び込んでくる。ボクは手を伸ばしかけた体勢のまま、首だけ動かして声の主を視界に捕らえる。も同じように首だけ動かし、その相手を確認して嬉しげに声を上げた。「嶺二さん」

「今から事務所?」
「あ、そうなんです。藍くん付きで今まで現場入ってて」
「ボクちんも午前中雑誌のコラムの打ち合わせあって今戻ってきたとこなんだ、二人が見えたからタクシー降りちゃった」
「えっそうなんですか?」

が目をまんまるくして、やっぱり嬉しそうにどこか弾んだ声を上げる。そのぱあっと晴れた顔を見て、ボクは反対に顔を顰めた。そんな表情を隠すように、ぷいと地面の方に顔を向けて、なるべく小さな声で言葉を吐き出す。「わざわざ降りなくてよかったのに」

「えーいいじゃんいいじゃん、アイアイだって僕がいたほうがいいっしょ?」
「全然」

冷たくあしらうと「アイアイなんか冷たくない!?」といつもどおりの態度。それも見越した上でわざと取った態度だ。我ながらイヤな奴だな、と胸の内では冷静に思っているのに、どうしても改められない。

「ていうかレイジ、傘は」
「ん、傘?」
「そうそう、いま雨ぽつぽつ来たねって話してて。今日予報雨なんですよ」
「……しまった、僕さっきのタクシーに傘おいてきちった」
「バカしかいないの、ここ……」

今度は本当に呆れた。「わービニ傘だからいいけど、あっいまぽつってきた、やばいこれ降るね!」とレイジが一人で騒ぎ出す。「嶺二さん勿体無いことしちゃいましたねえ」ともバカに合わせて気遣っているし、また余計胸のうちがモヤモヤと曇り出す。ただでさえ、ひどい天気になりそうなのに。そうこうしている内にぽつりぽつりの間隔は少しずつ狭まってきて、もう今にも空が泣き出しそうなことを示している。
きっと本当は、この傘は、ボクと、それからこの、さっきまでボクの隣にいた彼女に、使いたかったんだ。使いたかった、けれど、ボクは、彼女がそうしたい相手がボクじゃないことを、ずっと前から知っていて、だから、
感情の処理が終わらないまま、鞄から自分の折りたたみ傘を取り出す。淡いライラックのチェックのそれは、気に入って使っていたものだった。はちらりとボクを見て口を開く。「あ、藍くん傘持ってたんだ、」というその言葉にかぶせるように、僕は視線を俯かせたままぐっと傘を握りに突き出した。

「これ二人で使って」

「ボクは先に走って事務所行くから」そうさっと告げると、は案の定「え、でも」と引きとめようとする。雨足が少しずつ強くなっているように感じる。レイジは「いいよ、アイアイとちゃんで使いな。ぼくが走るから」と傘を押し返そうと手を上げる。その手に逆に傘を強めに押しつけて、「そんな体力ないでしょオジサン」と睨みつけた。

「ちょっ……ぼくちんまだピチピチの20代なんだけど!」
「うるさいよ。いいから使って。また後でね」

ボクの視線は変わらず二人じゃないどこかを彷徨って定まらない。言うが早いか素早く踵を返し、事務所の方向に向かって走りだす。雨はいよいよ本降りに近く、絶え間なく弱い雨粒が僕の全身を叩く。心拍数が上がっている。体温が僅かに上昇している。頭のどこかと胸のどこかが圧迫されているような感覚を覚える。言葉にならないような叫びを飲み込みながら、ボクは事務所への短い道のりを低く雲の垂れこめた雨の中を走っていく。

あめおとこ