小さな洗面台の前に立ち、鏡の中の自分と視線を交える。頬に当てた手を撫ぜるように少し動かして、指先に感じるぶつぶつとした感触に眉根を寄せた。肌が荒れている。
最初は新調した化粧水との相性が悪いのかと思って、かろうじて少し残っていた前の化粧水にも戻してみたが、どうやらそういうわけでもないらしい。思えばもう年齢も25をとっくに過ぎて、いわゆる「曲がり角」という歳だ。そろそろドラッグストアの安物ではごまかされない年齢ということだろうか。ため息をつきながら化粧水を手に取り、ばしゃばしゃと浴びせるように肌になじませる。濡れて少してかる肌に乳液を重ね、もう一度指先を肌の表面に滑らせるも、やはりそれは滑らかとは言い難い。ため息を一つ、今日の帰りはデパートの化粧品売り場に行ってみるかというゆるい決意をして洗面台から離れようとすると、「はよ」とのっそりこの家の主が立っていた。

「おはよ」
「……おう」
「……眠そうだね。昨日何時に帰ってきてた?」
「あ?あー…3時過ぎてたか。わかんね」
「もうちょっと寝てれば良かったのに」
「今日入りが9時だから」
「働くねえ」

洗面台を明け渡すと、蘭丸は珍しい緩慢な動作で寄っていき、ゆっくりと蛇口をひねった。勢いよく水が出る音を背後に、ひとまずキッチンの方へ向かう。コーヒーくらい淹れてやろうと思い、コンロの上に乗っていたヤカンを手にとった。

「らんまるー」
「おう」
「今日は帰り早いんだっけ」
「……昨日よりかは」
「じゃあ帰れそうになったら連絡ちょうだい」

「おう」と変わらず眠たそうに蘭丸がやってくる。この年下の恋人と半同棲状態になって半年、ここまで眠たげなのは初めて見たかもしれない。いつも隙あらば仮眠を取っているだけに、寝起きが悪いということはあまりなかったように思う。「コーヒーいるでしょ」と声をかけると、やっぱり短く「おう」とだけ返ってきた。
とりあえずお湯が沸くまで、とカバンからポーチを出し、顔に最低限の化粧を施す。といってもここ最近は面倒でオールインワンの下地を塗りたくったあと眉毛を描いてカラーリップを塗ってくらいしかしていない。こんなに肌に優しい日々を送っているのにどうしてこんなに荒れてしまうのだろうか。やっぱり基礎化粧品のせいなのか、そういう歳なのか、あるいは不規則な生活故か、はたまたストレスか。仕事のストレスは以前に比べれば全然感じていないし、不規則な生活なのは芸能事務所なんてところに勤めている以上ずっと前からだ。

「アンタさあ」
「はい」
「なんか、化粧しなくなったな」
「……え、わかる?」
「わかるわ」

頬杖をつきながら向かいに座る蘭丸の視線が頬に刺さる。確かにこいつと出会った当初はもっときちんとフルメイクしていたし、それこそ口紅やアイシャドウみたいなポイントメイクはデパコスを使っていたような気がする。「明らかに顔に色がねえだろ」と目をしょぼしょぼさせながら続ける蘭丸に縮こまりながら「いま人生で一番仕事忙しいの……」とそれとなく言い訳してみる。

「そんなにあの女手がかかんのか?」
「あの女って言い方ないでしょ。学園出たばっかで若いし、そりゃあアンタたちに比べたら手はかかるわよ」

蘭丸との出会いは、私がまだ結成したてのカルテットナイトのサブマネージャーになったからだった。確かにカルテットナイトのメンバーも個性派揃いで散々苦労させられたが、サブマネージャーだったこともあり今ほどは忙しくなかった気がする。1年ほどして別の男性タレントのメインマネージャーを務めた後、いまついているまだ17歳の駆け出し女性アイドルのマネージャーを担当することになった。知名度0から売り出してメンタル含めた体調も管理してとなると相当骨が折れる。決して気弱なタイプではないし、どちらかといえばポジティブなのでそのへんはありがたいが、事務所ぐるみで推している一人である上担当マネージャーが私一人だから業務量は半端じゃない。

「でもまあ未成年だからね、夜遅くなることはあまりないしそのへんはまだ楽かも……、あ、お湯沸いたね」

立ち上がってコンロの火を止め、マグカップを出す。その様子を見て蘭丸もまたのそのそと立ち上がり近くまで寄ってくる。

「オレやるから座ってろ」
「え、いいよ淹れるだけだし」
「お前のが出る時間はえーだろうが」

時計をちらりと見やれば確かに出る時間は迫っている。「…ありがと」と素直にキッチンの作業台から少し体をはがすと、蘭丸があくびをしながらヤカンを手にした。蘭丸がやってくれるからといって特にすることもなく、少し横にずれて慣れた手つきでインスタントコーヒーを用意する彼の手元に視線を注ぐ。まだ少し目をしょぼつかせながら、おもむろに蘭丸が口を開いた。

「なんつーか」
「うん?」
「歳とった気がすんなって」

は?

「……え、わたし?」
「おう」
「え、……なんで?」
「いや、明らかに化粧薄くなった、つーか、手抜いてる感じが」

「は、はあ」と空気が洩れ抜けるような音しか口から出てこなかった。「ご、ごめん」ととりあえずなぜか言ってみたものの、正直解せない。わたしの顔色を見てか、少しぎょっとした表情を浮かべた蘭丸は「いや、ちげえ、悪く言うつもりじゃなかった」と慌てたように言うが、今更どう取り繕われてもいいように受け取れない。

「そりゃあ、出会ってもう3年以上経つし老けるよね……」
「そうじゃねーって、あー悪かった」
「アンタ年下だし、そりゃあ蘭丸から見ればババアよね……」
「だから!」
「それ片方ちょうだい」
「あ?あ、お、おう……」

マグカップを片方受け取って口をつける。そりゃあこいつは番組の収録やら雑誌の撮影やらで日々美しい女優やタレントを見てるし、それに比べたら日々走り回るろくに化粧もしないアラサーなんて女枯れてるように見えるんだろう。わたしの倍くらいの年齢でも美しすぎる女がゴロゴロいる世界だ、「それにくらべてオレの女はなあ」なんて思われてもおかしくない。悪かったな。普段は飲まないブラックを胃に流し込んで一息ついた後、「じゃあ行くわ」と仄暗い瞳のまま呟くと「お、おい、伊園サン」となぜか昔のようなかしこまった呼び方で蘭丸が声をかけてくる。

「大丈夫、気にしてない」
「嘘つけよてめえ……」
「まあでも今日は口紅くらいちゃんとしてくわ」

なんとか無理やり表情筋を吊り上げて笑っているような表情を作る。どこか怯えたような見捨てられたような複雑な表情をした蘭丸を残して部屋を後にした。





確かに、最近は忙しさにかまけてろくに化粧をしなければお洒落な服装だってしていない。動きやすいパンツスタイルが基本で、仕事柄ジャケットは羽織らなければならないからどうしてもコーディネイトはワンパターンだし、髪だって手入れが面倒でショートでもなければロングでもない、かといって洒落たボブでもない中途半端な長さでまとめやすさしか重視していない。昔はデート前には気合入れてパックもしていたけれど、仕事が忙しくなって事務所が近い蘭丸の家に半分転がり込むような形になってからはそんなスペシャルケアもしなくなってしまった。
蘭丸からしてみれば。少し年上のお姉さんみたいなフィルターをかけて、少しは背伸びしたくなるような相手に見えていたかもしれない。それがいざあれやこれやを乗り越えて恋人になってみれば、忙しいを理由にどんどん老け込んでいく様は、そりゃあ、嫌だろう。
デパートの化粧品フロアを適当に流し見ながら、時折売り場に点在する鏡を覗き込む。朝の件を受けて塗ってみた地味目の口紅が余計悲壮感を醸し出していた。化粧っ気が出たというよりは「とりあえず口紅だけ塗っときました」感を助長する結果にしかなっていない。これじゃあ蘭丸だって嫌気もさすわな、と人知れず肩を落とす。
たまには、新しい化粧品でも買ってみれば少しはやる気をだすだろうか。かつて憧れだったブランドのコーナーの前で立ち止まり、いま推しだしているらしい口紅のシリーズの一つを手に取る。社会人になった頃はまだお金がなくて、ようやく口紅一本買って喜んでいたな、と思い出す。それから気合を入れるときはいつもそれをポーチに忍ばせていた。思えば蘭丸と初めてあった日も、あの口紅だったかもしれない。眉毛も割と釣り上げ気味で、必ず黒のライナーを目尻ではね上げていた。今思えばそれがまだ社会人として自信がないわたしの武装だった。手の中で照明の光を受けて煌くルージュを睨んでいると、店員が「それ先週でたばかりの新色なんですよぉ」とそっと近寄ってくる。ぱっと顔を上げて視線を緩める。

「そうなんですね」
「よかったら試されていきますか?」
「あ、そうですね、」

たまには、少しこうやって自分の尻を叩くのも、悪くないはずだ。

「お願いします」

ニッコリ顔の店員につれられながら、奥の化粧台へと進む。妙な決意を胸に眩い鏡に向かい合った。





「ただーいま」

明かりがついているからそうだと思ったが、玄関にを開けると猫に餌をやっている蘭丸がいた。「早かったじゃん」と声をかけると「午後の現場が急遽バラシになったから」と呆けた表情で返される。

「……なに、その顔」
「アンタそんな化粧してたっけか」
「わたしも今日夕方の現場終わって直帰だったから、久々に化粧品買いに行ったら店員さんがね」

下げている紙袋にはライン揃えした基礎化粧品と、店員に勧められたコスメがいくつか入っている、久しぶりに来月のカードの請求が怖い。

「ほら、オンナっぽいでしょ」

店員と「レディな感じで!」と盛り上がったメイクは、まあまあ悪くないできなんじゃないかな、と思う、口紅は歳を考えてやや抑え目にして、バーガンディ系のシャドウを丁寧に重ねている。大人っぽい仕上がりだ。朝よりも幾分か晴れやかな笑顔で蘭丸を見ると、「あ、あーまあ」と変に濁された。

「え、変?」
「そんなことねえけど」
「じゃあなによその反応」
「いや、なんつーか」

視線をそらされ、その態度に不安と怒りが混ざった感情がぶくりと胸の内に湧き上がる。あんたが、化粧がどうとか、言ったのに。「なに」と畳み掛けるようにもう一度投げかけると、しゃがんでいた蘭丸がすっと立ち上がってわたしの手首をとった。

「な、なに」
「ちょっとこっちこい」

キッチンを抜け居室の方へ連れて行かれる。適当に座らされ、まだふつふつと感情が交錯する胸を抱えたまま背を向けて何かを探しているらしい蘭丸の背中を見る。目当てのものはすぐ見つかったらしく、1分とかからない内に蘭丸は黒いポーチを手にわたしと向かい合うように座った。

「どうしたの」
「……朝の話だが、」

慣れた手つきでポーチを開けると、中身が少し目に入る。「別に老けたって言いたかったわけじゃねーよ」取り出されたのは黒い細長いペンのようなもので、それが何かはすぐにわかった。

「ただ、アンタもそうやって結構気を許せるようになったっつーか、それくらいの時間が経ったんだなって思っただけで」

そんな調子のいいこと言って、と思いながら言葉は何一つ口から出てこなかった。静かにキャップを抜いて出てきた黒い筆先。アイライナーだった。

「それ、どうすんの」
「ちょっと目ェ瞑ってろ」

自分で瞼を閉じるが早いか、蘭丸の大きな手がすぐ目の前を覆って視界を奪われる。そのまま目を閉じていると、僅かにひんやりとした感覚を瞼の淵に感じる。

「アンタ昔はいっつもこうしてただろ」

左目が終われば、次は右目。顔を固定するように頬に添えられた左手から彼の体温を感じる。「できた」という声で目を開くと、思ったよりも目の前に蘭丸の顔があって飛び退きそうになる。

「今も今で悪かねえけどよ、前のその顔も結構好きだったぜ」

自分の顔が今どうなっているのかはさっぱり分からないが、きっと彼の面倒を見ていた頃、武装していた頃のようになっているだろうことは察しがついた。気丈に振る舞うためのはね上げた強気なアイライン。至近距離に迫る蘭丸の顔がふっと緩んで、「これやるよ」とふいに手を取られた。ころんと細いペンを握らされる。

「え、これあんたが使ってるやつじゃ……」
「そーだけど、アンタももうこれ持ってないんだろ」

「使えよ」と笑う顔は妙に人懐っこくて、この男がようやくなつき始めた頃を思い出す。「どうも」と呟くように返すと、頭をくしゃっと撫ぜられた。

「でも家にいるときはいつものテキトーな顔してろよ」
「は、はあ?なにそれやっぱテキトーだと思ってんじゃん」
「それはそうだろ…じゃあテキトーじゃねえのかよ」
「テキトーだよ、悪かったな!」

気恥ずかしくなったのも相まって肩を勢いよくどつくも、すっと避けられてまるで抱きついたみたいな形になってしまう。愉快そうに笑い声を上げながら、年下の恋人はわたしの頬にそっと手を這わせる。

「俺といるときはテキトーの方がいい」

筆先で纏う