「間もなく電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください」

アナウンスが終わるとすぐに電車はやってきた。夜遅いホームには私と、恐らく残業帰りであろうスーツを着たサラリーマンが数人いるだけだった。私は少し寂しい。サラリーマンたちは全員電車に乗って、すぐに座って居眠りを始めた。いいなあ、どこでも寝られる人って。

「乗らないんですか」

ベンチに座る私に声をかけてきたのは、同じ職場の中原中也だった。太宰の云うところの、趣味の悪い帽子を今日も身に着けている。いつもは私が見下ろす中原を見上げるのは、なんだか新鮮だった。中原は私より二歳下の幹部で、仕事のできる人間だ。首領からの評価も悪くない。いつだったか一緒に仕事をしたけど、なかなかに優秀だった。私も、期待している。

「乗らない。帰りたくないから」
「ちゃんと休んでるんですか。隈、すごいですよ」

私の顔を覗き込んだ中原が問う。

「眠れないのよね、最近。嫌な夢ばかり見る。だから帰りたくないの」
「例えばどんな?」
「……私、婚約していたの。でもね、その人、私が何してるか打ち明けたら、逃げちゃった。そのときの夢を見るの。何度も」
「まあ、普通、マフィアと結婚しようなんて思わないだろ」
「やっぱそうだよね。それから、ずっと、眠れない」
「首領が心配していましたよ。最近疲れているようだって」
「あら、本当?首領にまで気を遣わせるなんて、だめね。気を付けないと」

電車はもう発車していた。マフィアが電車通勤なんて、危機感が足りないとかなんとか、昔誰かに云われた気がする。中原だって、樋口だって車で来ているし。

「ところで中原、どうしてここにいるの?貴方、車で来ているでしょう」
「近くに車は停めてあります。あー……、その、駅に向かうさんが見えたから」
「私を追いかけてきたの?」
「……首領が、心配していたから。……俺も」

後輩にまで心配をかけさせてしまった。ただ男に逃げられただけで、なんて情けない。でもそれだけ私はあの人が好きだった。結婚だって本気で考えていて、プロポーズされて本当に本当にうれしかったのに。あの人はそうではなかったのだ。寂しさも切なさもあの人しか埋められないのに。

「間もなく電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください」

二度目のアナウンスを聞く。確か次が終電だったはずだ。帰りたくないけど帰らないと。野宿する羽目になってしまう。

「あ、終電。帰らないと。じゃあね、お疲れ様」

中原は「お疲れ様です」と云って、背を向けた。私も電車に乗る。その瞬間だった。「さん!」と腕を引かれた。もうホームには私たちしかいない。中原はそのまま私の手を引いて、ホームの出口へと向かっていった。私、この電車逃したら帰れないのに。「ちょっと中原!」私の声を無視して中原はどんどん進んでいく。私より小さいくせに、力は強い。後ろで電車が発車した音が聞こえた。

「中原!ねえ、ちょっと!どこ行くの!」

やっとこっちを向いたと思ったら、中原は自分の車まで私を連れてきた。助手席のドアを開けて「どうぞ」と一言。よくわからない男だ。思ったけれど、口にはせず素直に従った。ドアを閉めてから、中原は運転席へと乗り込んだ。一体どういうつもりなのだろうか。

「なあに、家まで送ってくれるの?」
「……俺の家に、良い酒があるんです。一緒にどうですか」
「あんまりお酒得意じゃないんだけどな」
「呑めば少しは眠れますよ」

そうなったら中原の家で寝なくてはならないではないか。もう電車はない。
本当はどうして中原が駅に向かう私を追いかけてきたかなんて気づいている。随分と前から、あの一緒に仕事をした翌日から、中原の、私に向ける目が、先輩に対する尊敬だけの目ではないことも、気付いている。私だって同じ目をあの人に向けていた。だからわかる。中原のことは信頼しているし期待もしているけど、それはあくまで仕事だけの話だ。それに私はまだあの人を引きずっている。断って車を降りようとしたけど、また中原に腕を引かれた。「離して」そう云って見つめた中原の目が、ずっと見て見ぬふりをしてきた目であることを知ってしまう。私は、同じ目を中原に向けることなんてできない。中原では、私の寂しさも切なさも、埋めることはできない。できないんだから、そんな目で見ないで。

「貴女をこのまま、連れ去ってしまいたい」

美醜なる病