あ、花枯れちゃった。
朝起きて一番にするのは花に水をやることで、今朝もそうしようと思って霧吹きを手に花瓶を置いた窓へ向かえば、昨日まで咲いていた花はくたりとしていた。捨てないと。花瓶を手にすれば「おはようございます」とまだ少しだけ眠そうな声が耳に入る。
「おはようございます、伊檻さん」
「花、枯れちゃいました?」
「はい。でももう三週間くらい経ってたから、そろそろかなとは思ってたんですよね」
伊檻さんはわたしの手から花瓶をそうっと奪うと「花も生き物ですからねー」と、わたしの代わりに花をダストボックスへ入れた。花瓶も洗おうとしてくれたけど、それはわたしがやりますからと言えば、伊檻さんは花瓶をシンクの端に置いた。
「また何か花買ってきますねー」
「あ、じゃあ次は薔薇がいいです。白いやつ」
「白い薔薇ですか?」
「はい。……だめですか?」
「いいですよ。じゃあ近いうちに買ってきますねー」
「ありがとうございます」
本当はわたしも一緒に買いに行きたいのだけど、伊檻さんはわたしが外に出るのをあんまりよく思わないらしい。わたしの身を案じてのことだろうけれど、家の中だけでできることって限られちゃう。伊檻さんがよく花を持ってきてくれるのはわたしが花が好きだからっていうのもあるし、家の中でも楽しめるものをって考えてのことだ。
不本意だったとはいえ、衣食住を負担して貰っている手前わたしもあんまりわがままを言いたくない。それに、「俺は大切なものは鍵をかけてしまっておきたいタイプなんです」と言われてしまったら、何にも言えない。
「伊檻さん、今日はお仕事終わったらこっちに帰ってくるんですか? 向こうのお家ですか?」
ハムスターたちのお世話もあるだろうし、今日は普段伊檻さんが住んでるほうのお家に帰るのかな。こっちに来るときはお世話は別の人に頼んだり、時々ここに連れて来たりするけど、連れ回すのもハムスターたちの負担になるだろうし。
「どっちに帰ってほしいですか?」
細められた目がわたしを見る。青みのかかったグレーの瞳はいつも通りの穏やかな光を灯していた。
どっち、って。正直に言って良いのだろうか。でもわがままを言いたいわけではないし、でも、嘘を吐きたいわけでもないし……。どうしよう、と視線を彷徨わせるわたしに、伊檻さんは「冗談ですよー」と喉を鳴らして笑った。か、からかわれた……。
「からかわないでください!」
「すみません、つい。今日は向こうに帰りますー」
「……そうですか」
「寂しいですか?」
「……、……だってわたし、伊檻さんがいてくれないと一人ですもん……」
わがままを言いたいわけでも困らせたいわけでも嘘を吐きたいわけでもない。けど、寂しいものは寂しい。この家一人だと余計に広く感じるし。
「明後日にはこっちに帰りますから。花もそのときに」
そう言われたから、「約束ですよ」とわたしは自分の小指を差し出す。伊檻さんは微笑んで、そこに自分の小指を絡めた。
「今日何かありましたっけ?」
帯を結ぶわたしを見た伊檻さんが言う。わたしがそれに今日は花の展覧会だと返せば、伊檻さんは「ああ」と何かを思い出したかのような声を上げた。わたしの予定はいつもあらかじめ伊檻さんに教えているし、カレンダーにも書いている。多分それを思い出したのだろう。
「そういえばカレンダーに書いてありましたねー」
「帰るのは夕方になると思うんですけど、伊檻さんは?」
「今日はこっちに帰ります。が着物を着てるところ、あんまり見られませんし」
「……お着物のほうが好きですか?」
「どっちも好きですけど、着物は特別感ありますよね。だから俺が帰ってくるまで脱がないでくださいねー」
着物を普段着にしても良いのだけど、毎日着られるほどは持っていない。実家にも数着あるが持ってくるのも面倒だし。伊檻さんの言葉にわかりましたと頷けば、伊檻さんは「いい子」と目を細めた。わたしはそれを子供扱いされているみたいに感じて、少し恥ずかしくなって何にも返さずに着付けを再開した。
もう何年もしていることだから自分に着付けるのは慣れたけど、うまくいかない日もある。今日がそうみたいで、帯が理想通りにいかない。他人から見れば綺麗に出来ているだろうけれど、多分これこのままだと後で崩れそうだなぁ。
「、帯が少し曲がってますよー」
「あ、ありがとうございます……。すみません……」
月満家には魔除けのため、幼少期は女装をする風習があるという話を聞いたことがある。だから伊檻さんも女物の着物を着たことがあるらしく、素早くかつ丁寧に帯を直してくれた。これなら一日大丈夫だろう。
「いいえ。花展は何時までですか?」
「10時から14時までです。その後は茶道の先生のお茶会に少しだけ顔を出すことになってて……」
「時間があったら見に行きます。俺も今日は出来る限りはやく帰りますから、お茶会であまりはしゃぎすぎないようにしてくださいねー」
「はい、気をつけます。あ、わたしの作品はお写真撮ってきますよ。伊檻さんお忙しいでしょ」
「写真もいいですけど、直接見たいですね。作ろうと思えば時間は作れますから」
そういえば、伊檻さんと初めてお話ししたのも花展だったっけ。伊檻さんはわたしが花を生けているところもわたしの作品も好きだって言ってくれる。ちょっと恥ずかしいけど嬉しいな。
「もう出ますよね? 俺ももう出ますから、送りますよ。会場どこですか?」
「三越本店です。いいんですか? 送ってもらって」
「が嫌ならタクシー代渡しますけど」
「嫌じゃないです! 伊檻さんがお忙しいのはわかってるんですけど、朝こうやって一緒にいられることってあんまりないから、嬉しくて……」
忙しい人だとわかってるからこそ、一緒にいられる時間が貴重で大切なのだ。伊檻さんは少しだけ罰が悪そうにして「もう少し時間を作る努力をします……」と、手を差し出す。わたしはそれに、そう思ってくれるだけで十分だと返しながら手を重ねた。なんでもない日を、なんでもない時間を一分でも一秒でも一緒にいられるだけで幸せだから。
「行ったり来たりするの、大変じゃないですか?」
お夕飯はお魚とお味噌汁とほうれん草の胡麻和えだった。胡麻和えが上手に作れたなと思いながら、向かいでお味噌汁に口を付ける伊檻さんに訊けば、伊檻さんは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。けれどすぐにわたしの言っていることがわかったようで、「そんなことありませんよー」といつもの穏やかな調子で言う。
「ここで暮らして欲しいって言ったのは俺ですから」
「……でも、」
伊檻さんの言う通り、実家からこの家に引っ越さないかと提案してきたのは伊檻さんだ。実家暮らしだとなかなか二人の時間を作るのは難しいし、わたしはハムスターが苦手だから伊檻さんは気を遣ってわたしをそっちに行かせることもしない。結婚を前提にお付き合いしているし、両親からも出来る限り伊檻さんの言う通りにしなさいと言われている。没落寸前だった実家に援助をしてくれたのは伊檻さんで、それにはわたしも感謝している。両親に言われたからではなくて自分の意思で伊檻さんのそばにいるし、伊檻さんの言うことを聞いているのだ。伊檻さんは決してわたしを束縛しようとはしないし、外出もきちんと声を掛ければ基本的には許可してくれる。
一緒に暮らしたくないわけではないし、むしろ普段忙しい伊檻さんの手間が減るなら同棲したって良いのに。ハムスターも克服すると何度か伝えているけれど、伊檻さんはそうしない。何か考えがあるのだろうけれどわたしにはわからないや。
「。どうか考え過ぎずに、ここで俺の帰りを待っていてくれませんか?」
の作るごはん好きなんですよー。伊檻さんが微笑んだ。あんまり料理は得意じゃなかったけれど、伊檻さんが以前もそう言ってくれたことがあるから、頑張ったんです。わたしは心の中でだけそう返した。
「伊檻さんがそう言うなら……」
「は聞き分けが良くていいですねー。弓影なんか子供の頃は、今もですけど反抗的で、」
「伊檻さん、ごはんが冷めちゃいます」
伊檻さんのおしゃべりは始まったら長いし、その話は実は何度か聞いている。伊檻さんは優しい人で、身内や友人が本当に好きなんだなというのが会話の節々からわかって、わたしは伊檻さんのそういうところが好きだった。
伊檻さんはわたしの言葉に小さく謝ると、じゃあ続きは食べてから話しましょうと笑った。この家と自分の家を行き来している伊檻さんと、毎日一緒にごはんが食べられるわけではない。だからこそ大切にしたいと思いながら、でも、もしも一緒に暮らしていたとしてもきっと大切にするし、してくれるのだろうなと感じた。
「新しい靴、買ったんですか?」
今日はいつもより伊檻さんの帰宅がはやかった。帰宅というか、一度こっちの家に来て夕食を食べたら向こうのお家に戻ると聞いたけれど。それでも伊檻さんと一緒にごはんが食べられるのが嬉しくて、浮き足立って夕食をテーブルに並べていた。伊檻さんが帰ってきての第一声はそれで、その声がすこしだけ不機嫌そうというか、咎めるような声で思わず肩が跳ねる。
「……自分のお金です」
今日は生徒さんたちにお稽古をつける日で、その帰りに寄ったショッピングモールで一目惚れして靴を買った。グレーのスエード生地に深い青色のラインが入った細めのヒール。久しぶりに靴を買った。この家の家賃やら光熱費やらはいつも気が付くと伊檻さんが支払ってくれていて、その他に生活費だと毎月いくらか渡されるけれど、それは大抵食費になる。わたしだって働いていないわけではないし、伊檻さんとの食事以外でかかるお金は自分の財布から出している。当たり前だけれど。
「ああ、いえ。お金のことじゃなくてですねー。むしろ毎月渡してるお金は好きに使ってくれていいんですけどね……」
スーツの上着を脱ぎながら伊檻さんは言う。それにじゃあどうしてそんなに不満そうなんですか、と訊きたいけれど訊かなくてもわかる。多分、きっと、外を出歩く靴は必要ないって言いたいのだ。伊檻さんは優しい人だから直接的な言葉では言わないだろうけれど。お金を好きに使っていいと言うなら靴も買ったっていいじゃないかと思うけれど、伊檻さんには様々な方面で面倒を見て貰っているし、伊檻さんのそういうところも受け入れたからお付き合いしているのだし、と思って何にも言葉を返せなくなってしまう。
「……わたしが外に出るの、そんなにだめですか?」
「仕事は仕方ないとはいえ、それ以外では極力一人では出歩かないで欲しいんですよー。に何かあったらと思うと怖いんです。外にはいろんな奴らがうじゃうじゃいますからねー」
「一人じゃなければいいんですか?」
「……、いつからそんな揚げ足をとるようなこと言う子になったんです?」
「ちがっ、揚げ足取りじゃなくて、……あの靴、ヒールが細くてちょっと不安定なんです……」
「ああ。そうですねー。似合うとは思いますけどね、危ないんじゃないですか?」
「……だから、……お外で伊檻さんとデートするときだけ、履こうって……そしたら伊檻さん、手を繋いでくれるかなって……」
思って買ったんです、とだんだん小さくなったわたしの声に、伊檻さんは溜め息を吐いた。呆れられたかも。聞き分けのない子だって思われたかもしれない。
「」
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんです? 靴のことは俺も強く言い過ぎましたから、すみません。それと、が望むならいつでも手は繋ぎますよー」
伊檻さんはそう言うと、そっとわたしの髪を撫でた。
表参道の方に新しくミルフィーユのお店が出来たらしい。生徒さんたちがそんな話をしているのを耳にして、今日はこっちの家に帰ると言っていた伊檻さんの好物だしお土産に持って帰ったら喜んでくれるかも、とお稽古の後にお店に寄った。開店したばかりで、SNSなどでも話題になっているからなのか繁盛していて行列が出来ている。伊檻さんはまだ帰ってこないだろうし、とわたしもその行列に並んだ。
カスタードクリームにいちごの、スタンダードな味からフランボワーズを使ったものやサラダが入ったものなどいろいろある。並んでいる間にご覧ください、と渡されたメニュー表を見てどれにするか悩む。スタンダードなものは一つ欲しい。あれこれ考えていれば順番がきて、結局決めきれず四個ほど買った。
「ただいま帰りましたー」
「おかえりなさい、伊檻さん」
今日はいつもよりはやく仕事を終えられたらしい伊檻さんのスーツの上着を受け取ってハンガーに掛ければ、伊檻さんが「甘い匂いがしますー」と言う。それに生徒さんが教えてくれたお店のミルフィーユだと返せば、伊檻さんはわかりやすく嬉しそうな顔をした。
「丸いミルフィーユなんですよ。手軽に食べられるのが人気みたいです」
「そういえば、都湖が可愛いお店があるって言ってましたねー」
「内装も素敵でした。あ、今食べますか? ごはんの後にしますか?」
「今いただいていいですか?」
ごはんもちゃんと食べますよ、と言う伊檻さんはどこか子供みたい。買ってきた四つをテーブルに並べて、どれが何の味か説明すれば、「半分こしましょうかー」と伊檻さんが言う。全部はさすがに食べ過ぎだから、今一つ食べて、もう一つを食後のデザートにしようと提案されて頷いた。
カスタードといちごのミルフィーユを半分に切って、一緒に入っていた紙ナプキンに包んで伊檻さんに手渡せば、伊檻さんは若干戸惑っていた。手掴みで何かを食べるという経験があまりないのだろう。
「これ、このまま食べるんですかー?」
「はい。片手で手軽に食べられるのが売りらしいですよ。そのままがぶっと、どうぞ」
「ん、……! 美味しいですねー」
気に入ってくれたらしい。わたしも半分に切ったものを咀嚼すれば、伊檻さんが気に入るのも頷ける美味しさだった。
「ふふ、伊檻さん、こぼしてますよ」
パイ生地はぼろぼろこぼれるものだけれど、食べるのに夢中だったのか伊檻さんはこぼしていることに気付かなかったらしい。それをちょっと可愛いなと思いながら指摘すれば、伊檻さんは「食べるの難しいですねー」と笑った。
「、」
「ん……」
「こんなところで寝てたら風邪引きますよー」
肩を揺すられて目を開ければ、すぐ隣に伊檻さんが座っている。つけっぱなしのテレビからは古いロマンス映画が流れていた。おかえりなさい、と言えるのはいつも嬉しい。伊檻さんは「ただいま帰りました」と柔らかく微笑んで、映画見てたんですかとテレビに目を向けた。
「なんとなく見てたんですけど途中で寝ちゃいました」
「昨日、遅くまで俺のこと待っててくれましたからねー。いつも言ってますけど、先に寝てていいんですよ」
「伊檻さんが無事に帰って来てくれると、安心するので……。迷惑なら、止めます……」
「迷惑じゃないですけど、俺もの身体が心配なんですよ」
「徹夜続きの伊檻さんよりは平気ですよ」
「……耳が痛いですねぇ」
伊檻さんのお仕事が大変なのは十分わかっているのだけど、無理はしないでほしいなぁ。そう思っていたのが伝わったのか「今日は早く帰って来ましたよー」と得意げに言われた。可愛い……。
「折角だから続き見ましょうか?」
「あ、じゃあお茶入れます。紅茶でいいですか?」
「はい。ありがとうございます」
運良く映画はコマーシャルに入ったし、この間に紅茶を淹れようと買い置きしてあるレモンティーの封を開けた。お湯を沸かしてカップを温めて、ティーバッグを沈めたところでちょうどコマーシャルが明ける。映画は半魚人と口が聞けない女性が恋に落ちるという、ロマンスとファンタジーを融合させたものだった。水中でしか生きられない半魚人が、水浸しのシャワールームでヒロインと抱き合っている。
「懐かしいですねー、これ」
「見たことあるんですか?」
「はい。公開されたとき、当時付き合っていた方にせがまれて映画館に見に行きましたよ」
「……そうなんですね」
「すみません、余計なことを言いました」
今はだけですよ、と髪を撫でられて、子供っぽく妬いた自分が嫌になる。伊檻さんは名家の長男だし、過去にお付き合いをしていた人がいるのは何にも不思議ではないし、むしろ今わたしとこうして付き合っていることのほうが不思議なのに。続き見ましょう、と言われて画面に目を戻す。魔術師を異種だと考えて良いのかはよくわからないけれど、もしそうなら、伊檻さんとわたしもこの映画の二人のように異種間恋愛になるのだろうか。どうしたって分かり合えない部分やどうしようも出来ないことが、この先起こるのかな。
「伊檻さん」
「はい?」
「明日も、きっと無事に帰って来てくださいね」
「約束は出来ませんよー」
伊檻さんは出来ない約束をしない人。わたしはわかっていて言ったから、伊檻さんからそう返されても不満や文句は出てこなかった。
「でも、いつでものことは心に留めていますよ」
テレビに目を向けたままの伊檻さんに、「わたしも、いつも伊檻さんのこと考えてます」と小さく返した。
セックスレス、というほどのものではないけれど、伊檻さんとそういうことをする頻度が多くないのは確かだった。伊檻さんは忙しい人だし、仕方ないのだけど、わたしだって性欲がないわけではないし。受け身になってばかりはだめ、たまには自分から誘うことも大事だと都湖さんに教えて貰ったけど、自分から誘ったことなんてないし……。
「、沸騰してません? それ」
「あっ、すみません……」
「考え事ですか? ボーッとしてましたねー」
「……いえ、ちょっと、あの……はい」
「調子悪いなら無理せず言ってくださいねー」
「体調は全然何ともないので大丈夫です。……あの」
「はい?」
「今日はお夕飯食べたら向こうのお家に帰りますか?」
「そうですね、一度帰ってまた来ますよー。明日は休みが取れたので」
「えっ」
チャンスではないだろうか。でも久々の休暇だろうしきちんと休んでほしい。ハムスターたちとも過ごしたいだろうし。ハムスターといえば、やっぱりわたしに合わせてこっちの家に来て貰うの申し訳ないな。でもわたしのわがままでこの家を用意してくれたのに、今さら引っ越そうと言うのは都合が良すぎるだろうか。でもどう考えても一軒で済むならそっちのほうがいいのではないだろうか。
「?」
「あっあの一緒に暮らしませんか!?」
考えがまとまらないまま勢いで言ってしまったわたしを見た伊檻さんは目をぱちくりさせると「どうしたんですか?」とちょっと笑った。今だって一緒に暮らしているようなものだけれど、何か不満や不便があるのかと聞かれて、慌てて違うのだと返す。
「その……伊檻さん忙しいのにあっち行ったりこっち来たりして貰うの、申し訳ないですし……」
「俺の家に引っ越したいってことですか?」
「そっちのほうが良いのかなって……わたしの我が儘でこの家を用意してくれたのに虫が良いかもですけど……」
「そんなことありませんよー。でもうちにはハムスターいますし、はハムスター苦手ですよね?」
「それは……がっ、がんばります!」
苦手なのは確かだが全く触れないわけではないし、可愛いとは思うし、頑張れば大丈夫。だと思う。伊檻さんはそんなわたしを見てクツクツ笑うと、無理しなくていいですよと言う。
「無理してません! それに……あの……そっちのほうが伊檻さんと一緒にいられるし、コミュニケーションもたくさん取れると思うから……」
「コミュニケーションって、例えばこういう?」
一気に距離を縮められて、耳元でそう囁かれたかと思えば手をすり、と撫でられる。伊檻さんは優しくて気遣いも出来る人だけれど、時々少し意地悪だ。
「こっ……そ、……ぅ……」
「すみません、意地悪しすぎました。冗談ですよー」
ぱっと手を離した伊檻さんに髪を撫でられる。冗談。冗談に、したくない。そう思って、今度はわたしから伊檻さんの手に触れた。わたしよりずっと大きくて骨張った、でも線の細い手。きゅ、と握れば伊檻さんは「?」と優しく笑う。
「……伊檻さんと“こういう”ことしたい、って思ってます……わたし、もっと、伊檻さんに触って欲しいって……思ってるんです……」
わたしの手を優しく外した伊檻さんは、その手を取って「やっぱり帰らずそのままこっちにいますね」と言うと、爪先に口付けを落とした。
諸々の手続きやら荷造りやらを終えて、引っ越しは順調に進んだ。伊檻さんから合鍵を貰っていたからそれで中に入って、ハムスターたちに挨拶をしてから、事前に言われていた部屋に自分の荷物を整理した。伊檻さんはしばらく忙しくて帰れるかわからないから部屋は好きに使って良いと言っていた。それから慣れるためにもハムスターたちのお世話も頼まれたので、餌の場所やあげる時間などをメモした紙を見ながら、今日のお世話を無事に終えた。どこに何があるか把握するべく家の中を探索して、伊檻さんのお部屋というか恐らく寝室だろう場所に入るかどうするか悩んで、結局やめた。伊檻さんが帰って来たらきちんと許可を取って入ろう。
『それでさ〜彼氏がエロ本持ってたのあり得なくない!?』
相変わらず極力外出は控えるように言われているから、お稽古や展覧会のない日は家の中で一日を過ごしている。動画配信サービスで適当な動画を流しながら掃除をしていれば、そんな声が聞こえてきて掃除の手を止めてスマートフォンの画面を見る。女性二人組の動画配信者が女性の本音を暴露というテーマでトークをしているらしい。自分という彼女がいるのにエロ本を持っていたりAVを見ていたりするのは嫌だと話している。伊檻さんはどうなのだろう。エロ本とか持っているのだろうか。寝室に隠してあったりするのだろうか。AVは見る時間がなさそう。
「伊檻さんって、えっちな本持ってたりしますか?」
数週間ぶりに帰宅した伊檻さんに、夕食を作りながら聞けばハムスターたちに餌をあげていた最中の伊檻さんの手がピタ、と止まった。それからいつもの穏やかな微笑みで「寝室に入りました?」と聞かれる。首を横に振れば、伊檻さんはハムスターたちの餌やりを再開した。そう聞くってことはやっぱりあるのだろうか。
「そういえば聞いてませんでしたけど、寝室分けたいですか?」
「伊檻さんと一緒が良い、です。伊檻さんが嫌じゃなければ……」
一応わたしの部屋にもベッドはあるけれど、普段一緒にいられる時間が少ないから一緒に寝たい。朝起きて伊檻さんがいないのは、いつもちょっと寂しいけれど。
「嫌じゃないので、寝室も好きに使って良いですからねー。あとえっちな本はありませんよ」
「えっ、ないんですか?」
「あったほうが良かったですか? がいるから必要ないんですよねー」
わたしがいるから必要ないってどういうことだろう。が欲しいなら買っても良いですけど、と言われたから、説明するために先日見た動画の話をした。それから持っていないならどうして寝室に入ったか聞いたのか訊けば、伊檻さんは「の反応が見たくて」と目を細めた。期待された反応が出来たのだろうか? よくわからないけれど、今日は一緒に寝られるからそれが嬉しいし、いいか。
「39度ですねー」
最悪だ。昨晩から調子が悪いなと思っていたけれど、今朝起きたら更に酷くなっていた。朝起きて、喉が痛くて声も掠れているわたしに気付いた伊檻さんは、少しだけ出勤を遅らせるからと面倒を見てくれた。お仕事忙しいだろうに。弱っているときは罪悪感がいつも以上に顔を出す。今日がお稽古のある日ではなくて良かった。生徒さんにも迷惑をかけてしまうところだった。
「ごめんなさい……伊檻さん……」
「なんで謝るんです?」
「だって……、伊檻さん忙しいのに……。わたしは大丈夫ですから、お仕事行ってきてください」
伊檻さんは眉を下げて少し笑った後、布団を掛け直しながら「何か欲しいものとか、してほしいこととかありますか?」と首を傾げた。こんなに高熱を出したのは学生以来かもしれない。基本的に健康体なわたしは滅多に風邪をひかない。だからなのか、一度引くと症状が重めだ。ぼんやりする頭でほしいもの……と考えるけれど、頭が回らない。伊檻さんにそばにいてほしい。けれど困らせたくない。
「なんにも……本当にわたしは大丈夫ですから……」
「そうですか? じゃあ何かあったら連絡してくださいねー。薬置いておきますから、飲めるときに飲んでください」
「はい、ありがとうございます」
「俺はもう行きますけど、ちゃんと寝て安静にしててくださいねー」
「はい、いってらっしゃいませ……」
「いってきます」
そっとわたしの前髪を撫でた伊檻さんは、まだ少し不安そうな顔をしながらも寝室を出て行った。サイドテーブルには伊檻さんが持ってきてくれた薬とミネラルウォーターのペットボトルが置いてある。後で飲もう。そう思いながら、寂しさを誤魔化すように目を閉じた。
目が覚めたら外はすっかり暗くなっていた。結構寝てしまった。そういえば、折角伊檻さんが用意してくれた薬を飲み忘れてしまった。伊檻さんはまだ帰って来ていないだろうと思ったけれど、キッチンの方から物音がするのに気付いて起き上がる。キッチンに向かえば、何だか優しい香りがする。
「伊檻さん? おかえりなさい」
「、起きました? 随分よく寝てましたねー」
「すみません……。夕飯何も用意してなくて……」
「病人に家事させるほど鬼じゃありませんよー。それに、今日は俺が作りましたから」
「えっ、伊檻さん疲れてるのに……すみません……」
「は謝ってばかりですね」
責めるわけでもなく淡々と伊檻さんはそう言った。すぐに「すみません」が出てしまうのは良くないとわかってはいるものの、なかなか直らない。でもやっぱり、すみませんよりありがとうをたくさん伝えていきたい。
「いつも家のこと任せきりにしてますし、もっと甘えても良いんですよー」と伊檻さんは作業する手を止めずに言う。
「ありがとうございます。何作ってくれたんですか?」
「お粥です。定番ですけどねー」
「美味しそう……。ありがとうございます」
「どういたしまして。これ食べたら飲み忘れてる薬も飲んで、はやめに寝ましょうねー」
伊檻さんの言葉に、今日あれだけ寝てしまったから眠れるかなと不安に思いながらも頷いた。はやく治して、明日からまた伊檻さんのためにごはんを作りたい。
どうして伊檻さんがわたしを選んだのか、本当はずっと前から知っていた。
窓辺に置かれた花瓶に刺さった白い薔薇が変色して茶色くなっていた。そろそろ枯れる頃だとは思っていたけれど、存外早かったそれを手にキッチンへ向かう。今までありがとう。心の中でそう言って薔薇を捨てた。
「花、枯れちゃいました?」
後ろから声がして、それに肯定の返事をすれば伊檻さんは静かに「じゃあまた何か買ってきますね」と笑った。それから、と柔らかい声と眼差しに呼ばれて返事をすれば、伊檻さんから今日の夕飯は外で食べようとお誘いの言葉。その言葉に今晩は一緒にいられるのだと嬉しくなって、上擦った声を上げてしまった。伊檻さんはそんなわたしを見てくすくす笑うと、そろそろ時間だからと仕事へ向かった。
伊檻さんにとって、わたしは都合の良い人間なのだと思う。伊檻さんは名のある家の長男だから、見合いだとか跡継ぎだとか、各所からそういう話をされるのだろう。そういうのを上手く躱すための口実が欲しかったのだと思う。わたしは、そんなときに丁度良く、加えて伊織さんとの交際を断れない理由があった。だからわたしは選ばれたのだと思っていた。
今日までは。
待ち合わせのレストランは初めて二人で行った所だった。一度迎えに来ると言われたのを、タクシーを使うからと断ってそこに向かえば、レストランがあった場所は更地になっていた。タクシーの運転手さんに本当にここで良いのかと訝しげに訊かれる。それに頷いて代金を払って車を降りれば、やはりそこには何もない。びゅうと吹いた風が木の葉を散らしていく。潰れてしまったのだ。
「」
呼ばれて振り返れば、薔薇の花束を抱えた伊檻さんがいつもと同じく微笑んでいた。レストラン、潰れちゃったんですね。伊檻さんのそばに寄ってそう言えば、伊檻さんは知っていたのだと話す。本当はずっと前からここが潰れてしまったことを、知っていたのだと。知っていてここを指定したのだと。
「どうしてここにしたんですか?」
「初デートの場所が一般的かなと思ったんですよねー」
「一般的?」
「、結婚しましょう」
伊檻さんは薔薇の花を抱えたまま、スーツのポケットから指輪を取り出した。わたしの左手を取った伊檻さんは、薬指にそれを嵌めた。
「と言っても今は形だけで、式とか籍を入れるのはもう少し先になりますけど」
伊檻さんは忙しい人だし、その仕事も結構危ないものだっていうのは知っている。特に今は何だかとにかく大変らしい。伊檻さんのご実家のことやそういう仕事のことを考えれば、結婚はまだまだ先になるだろう。
「は若いし、将来だってもっとたくさん、いろんな道があります」
伊檻さんは指輪をそうっと撫でるとわたしを見て、そう言った。いつもの笑みではなく真剣な顔で。
「あなたに未来の約束をさせることが、あなたの未来を奪うことだとわかってます」
「そんなこと、」
「でも、俺はこの先もと一緒にいたいですし、を愛してます。俺の仕事は危険なこともありますし、いつ命を落とすかだってわかりません」
風で花束が揺れて、バサリと音を立てる。伊檻さんはどこか不安な顔で、けれど気丈に振る舞うかのような声色で、わたしに言葉をくれる。
このレストランで、ミルフィーユが美味しくておすすめだと言われたのを、今でも鮮明に覚えている。今思えば、そばにいてくれるなら、わたしを選んでくれるなら、口実なんて本当は何でも良かった。そもそもそんなものはなくたって良かったのだ。わたしが伊檻さんに心を奪われたのは覆しようのない事実で、真実なのだから。
花を羨んだことがある。柔和で慈しむような眼差しを向けられた花を、たった一度だけ、初めて伊檻さんと出会った日に。あの眼差しの先にいるのが自分なら、と深く考えた。
「を一人にさせることも、不安にさせることもたくさんあります。それでも、俺の帰りを待っててくれますか?」
伊檻さんがそっとわたしの手に薔薇の花束を握らせる。白い薔薇。わたしは白い薔薇が好きだった。まっさらで何にも染まっていない、美しい色。世界を知らない色。伊檻さんはわたしの未来を奪うと言っていたけれど、わたしに世界をくれたのは伊檻さんだ。わたしを、愛してくれる。きっとわたしはこの先、この人以上に誰かに愛を咲かせることはないだろう。
「はい、勿論。いつだって、ずっと、伊檻さんがお帰りになるのを、お待ちしています」
だってわたし、あなただけの花ですもの。
01
家は華道の家元で、子供は姉のわたしと、まだ高校生の弟が一人。華道の家元としてはそこそこ名を馳せていたけれど、最近はあまり両親の機嫌が良くない。教室の経営がうまくいっていないのだ。父は弟に家督を継がせる気で、弟もそのために日々お稽古をしているけれど、弟が大人になるまで破綻しないか怪しいところだ。このままでは没落の一途を辿る。それがどうにかならないかと、母はやたらとわたしに良い家柄の男性との結婚を勧めてくる。わたしも人に教えられるくらいには一応免状を持っている。今は数人の生徒さんを週に二日程度教えているけれど、実家を出て外でもっと本格的に教室を開くだとか、良い家柄の人に援助して貰うだとか、まあとにかく金銭面での不安事を解消したいらしい。
幼い頃から触れていたし花は嫌いではないけれど、実家を出てまで自分でやりたいかと言われたら、それは正直なところ否だ。けれど花道しかやってこなかったわたしには他には何もない。やりたいから、というよりはそれしか出来ないから、という感じ。
「先生? どうかされましたか?」
不意に声を掛けられてハッと顔を上げた。いけない。家のことを考えると暗い気持ちになってしまう。今日はわたしと、わたしが受け持つ生徒さんたちの花展だ。みんなの素敵な作品を前に憂鬱な気持ちでいたくない。「すみません。何でもありませんよ」と言いながら気持ちを切り替えて、声を掛けてくれた生徒さんと一緒に準備を再開した。
「〜!」
開場して早々に声を掛けてくれたのは都湖さんだった。相変わらず男の人とは思えない美人さんだ。月満家といえば有名な魔術師の家で、その次男の都湖さんは美しいものが好きで、よく父や母の花展に来ていた。その延長で知り合って、わたしの花展にも顔を出してくれるようになった。
挨拶をしようと都湖さんに近付けば、隣に知らない男の人がいた。目が合う。見たこともない月の、裏側を知ったような感覚だった。青を含んだシルバーグレイの瞳が細められる。世界が静止して、わたしは呼吸を忘れてしまったみたい。胸は鳴らない、けれど締め付けられる。一目惚れなんて初恋の人に似てただけ、なんてセリフはいつどこで聞いたものだったか。初恋なんて、ないのだけれど。
「?」
「あっ、……都湖さん。こんにちは。いつも来てくださってありがとうございます」
都湖さんに訝しげな目を向けられて、慌てて挨拶をすれば都湖さんはにっこり笑って「の花見るの楽しみなの」と返してくれた。
「あ、こっち長男の伊檻。この後買い物に付き合って貰うの」
都湖さんがスーツを着た上品そうな男の人を指せば、その人は穏やかな笑みを浮かべた。月満家の長男だったなんて。何だか変に緊張してしまう。強張るわたしとは対照的に、伊檻さんは変わらず柔らかな笑みのまま。
「初めまして、さん。兄の伊檻です。いつも都湖がお世話になってますー」
「い、いえ! そんな。こちらこそ都湖さんにはよくしていただいてます。と申します。よろしくお願いします」
そう挨拶を返せば、伊檻さんに「よろしくお願いします」と手を差し出された。そっとその手を握れば、すこしだけ冷たかった。
それから自由に見て貰って大丈夫だと言えば、二人は花展を楽しんでくれているようで、生徒さんたちとも言葉を交わしてくれた。都湖さんはいろんな作品を見てきちんと感想を生徒さんたちに伝えてくれていて、楽しそうに話す都湖さんと生徒さんたちのそんな様子を眺めていれば、不意に「さん」と伊檻さんに呼ばれる。
「はい、何でしょう?」
「この花はあなたが?」
伊檻さんの目の前に置かれた作品はその通りわたしが活けたもので、白い椿の一種活けだ。伊檻さんの言葉に頷けば、伊檻さんは花に目を戻して「綺麗ですね」と目を細めた。
花を羨んだのは、後にも先にもこのときだけだった。だって、こんなに優しくて愛おしそうな眼差しを向けて貰えるのだもの。
「ありがとうございます。嬉しい」
「都湖からあなたの話をよく聞いていたんですよー。とても綺麗に、繊細に花を活ける方だと」
「それは……ありがとうございます。何だかすこし恥ずかしいですね……」
「家の噂も聞いていますよ」
ヒュッと喉が鳴る。伊檻さんの声も表情も相変わらず穏やかなままで、反対にわたしの顔は強張るばかりだった。やっとすこし緊張がほどけたと思ったのに。伊檻さんは花から目を外すとわたしを見て、静かに、優しい声で言った。
「俺と婚約しませんか?」
02
花展は滞りなく終わって、家に帰って来たのは夕方だった。家までどうやって帰ってきたのかよく覚えていない。ぼんやりとタクシーに乗って、運転手に何かしら世間話をされた気がするけれど話の内容は半分も頭に入らなかった。伊檻さんはあの後「考えておいてくださいー」と、連絡先を書いたメモをわたしの手に握らせると都湖さんと買い物に行ってしまったし。未だ理解していない頭で考えるけれど、わたしは、もしかして伊檻さんに告白されたのだろうか。なんで?
「!」
とりあえず着替えてお風呂に入って寝てしまおう。疲れた頭で考えてはいけない。そう思って帯に手を掛けたとき、部屋の外からわたしの名前を呼ぶ興奮した声が聞こえたかと思うと、母が勢いよく襖を開けた。
「どういうことなの!?」
「え、なにが……?」
「月満家の長男とお付き合いしているならそうと言いなさい!」
知ってたらあんなにお見合い写真見せなかったのに、と母が興奮気味に言う。え、なに。
「わたし、誰ともお付き合いなんて、」
「は昔から大事なこと言わないんだから! ああ、でもこれでうちも安泰ね」
「え」
「伊檻さんが援助してくださったのよ! あんな大金……。今度絶対に家に連れて来なさいね! お礼しないと!」
そう言って母は部屋を出て行った。相変わらず嵐のような人だ。父はそこが気に入っているらしいが。
援助の意味がわからない。そもそもわたしと伊檻さんはお付き合いなんてしていないし、今日初めて会ったばかりだ。帯にかけたままだった手をスマートフォンに伸ばして渡されたメモの番号にかけたけれど、留守番電話サービスに繋がった。伝言を残すか考えて、でも具体的にどう話せば良いか短い時間ではわからなくて結局電話を切った。
着信があったのはお風呂を出てすぐだった。濡れたままの髪を適当にまとめて画面を見れば伊檻さんの文字。慌てて応答ボタンを押せば、『伊檻ですー。電話出られずすみません』と柔らかな声が近い。電話の向こうはすこし騒がしい。外にいるのかもしれない。
「いえ。お忙しいのにすみません……。今日はありがとうございました。それで、あの、」
『さん、一度会って話をしませんか?』
優しいけれど有無を言わせない声だった。けれどここではっきり言わないとダメな気がして「……会えません」とどうにか絞り出すように声にした。電話の向こうから、そうですかとすこしだけ悲しそうな声が聞こえる。悲しそうというか、寂しそう。
「……お金はお返します」
『その必要はありませんよー。あれは俺が勝手にやったことですし』
「でもっ」
『別にお金でさんを買う気はありませんよー。あの程度の額で買えるとも思ってませんけど』
こわくて具体的な額は聞いていないけれど、わたしだって金で買われてやるつもりは毛頭ない。でも伊檻さんの援助のおかげで安泰なのは確かだ。あんなに喜んでいる母を見たのは久しぶりだった。あの喜びようから察するに相当な額を貰ったのだろう。
伊檻さんはそう言うけれど、じゃあどうして援助なんて。見返りも求めずにお金だけ出す人なんているのだろうか。伊檻さんとは今日が初対面で、優しそうな人だというのはわかる。けれどそれしかわからない。だからもしわたしがここで断って、伊檻さんの機嫌を損ねるようなことを言ったら? 没落寸前の家は、援助がなければこの先立ち直るのは相当厳しい。弟はまだ高校生だし、この先大学へ通うにもお金がかかる。父の生徒さんたちが何人も辞めていったのを数日前に目にしたばかりだ。
「……伊檻さん、やっぱり一度会って話をしたいです……」
震える声でそう言えば、伊檻さんは『ええ。喜んで』と穏やかな声で言った。
03
伊檻さんが指定したのは遅くまで開いている、個室のあるレストランだった。伊檻さん曰く「美味しいものがあるほうが緊張がほぐれますから」らしい。家まで迎えに行くと言われたけれどそれをどうにか断ってタクシーを捕まえた。母に見られたら何を言われるかわかったものじゃない。
タクシーに乗り込んで息苦しさを誤魔化すように窓を開けた。ドレスコードがあるか聞くのを忘れて、派手すぎないワンピースを着てきたけれど大丈夫だろうか。
待ち合わせのレストランは時間も時間だからか空いていて、人の話し声がオルゴールの音色みたいに聞こえてくる。入口を過ぎればすぐに店員さんがわたしに気付いて個室に案内してくれた。伊檻さんはもう着いていて、わたしはひとつ深呼吸をしてから向かいに腰掛けた。
「こんばんは、さん」
「こんばんは。お待たせしてすみません」
「呼び出したのは俺ですから気にしなくていいですよー。何飲みます?」
「……いりません」
話をしに来たのは確かだけれど長居をするつもりはない。わたしたちの雰囲気を察したのかそばに控えていたウェイターは一礼すると部屋を後にした。
「さん、そんなに怖い顔をしないでください。俺はただあなたと食事をしたいだけなんですよー」
「……だって、……どうしてわたしなんですか」
もっとちゃんと丁寧に会話をするべきなのに。頭ではわかっていても行動が伴わない。伊檻さんはそれまで開いていたメニューを閉じると、短く溜息を吐いた。一目惚れなんです。言葉が空気に溶け込んでわたしの耳を優しく叩いた。
「こんなおじさんがさんのように若い子に一目惚れなんて引かれるかもしれませんが、それしか言いようがないので。あなたの花を見たとき、一目で気に入りました。都湖から聞いていた通り美しくて繊細で、… …寂しい子だと思ったんですよ」
伊檻さんはわたしに手を伸ばすと、そっと髪を耳にかけて、わたしの頬に触れた。すこしだけつめたい手のひら。びくりと肩を跳ねさせたわたしに、伊檻さんは目を細めて言う。
「この美しい花を独り占めできたら、どれだけ良いのだろうと」
「、でも、伊檻さんくらいの家柄の人なら他にもたくさん……」
「俺はあなたが良いんですよー。さんは、俺は嫌ですか?」
わたしはあのとき花を羨んだ。心底優しい、愛おしそうな眼差し。その眼差しを向けられていた花を。呼吸を忘れて胸が締め付けられるあの感覚も、覆しようのない事実で、答えなのだと思う。
「嫌じゃ、ない……です……」
伊檻さんは「よかった」と息を吐くと手を離した。それになんとなく寂しさを感じて、わたしはこの人に触れられるのが嫌ではないのだと気付く。
「じゃあ善は急げって言いますし一緒に暮らしません? ハムスター二匹と同居中なんですけど部屋は余ってますし。さん、今はご実家ですよね?」
一度閉じたメニューを開いてわたしに差し出しながら言う。何でも好きなもの頼んでいいですよーと言われて、頭の中がぐるぐるする。部屋は余ってる。ハムスターが二匹。何でも好きなものを。
「ここのミルフィーユ美味しいのでおすすめですよー」
「あ、え、はい……じゃあそれで……」
「何か飲みますか?」
「あ、紅茶を……あたたかいやつ……」
「はい」
伊檻さんはウェイターを呼ぶと同じものを二つ注文した。完璧な笑顔を浮かべたウェイターが去ったのを見送った伊檻さんは未だに頭の中がぐるぐるしたままのわたしを見てクツクツと笑う。
「一緒に暮らすの嫌ですか?」
かと思えば眉を下げた伊檻さんがそう訊いてきて、その顔がちょっとかわいくて、気持ちの整理がつかないまま口を開いた。嫌なわけではない。まだお互いのことをよく知らないけれど、そういう状態からの同棲のほうが長続きすると聞いたことがある。結婚前に同棲はしないほうが良い、という話も。そのあたりは人それぞれだろうけれど。
「い、嫌では、ないんですけど……わたし……あの、……」
「はい」
「ハムスターが、苦手なんです…………」
そう言ったときの伊檻さんの何とも言えない表情、きっと一生忘れられないだろうな。