「
ちゃん、あれ好きだったよね、あれ」
隣を歩く太宰が、人の居ない建物を見乍らそんなことを云った。
そこはほんの数年前まで駄菓子屋だった。年老いた、あまりお喋りではないおばあちゃんが一人でやっていたお店で、店に入ったときは何も云われないけれど、買い物をした後に「お嬢ちゃん、いつもありがとうねえ」と毎回云われたのを憶えている。
私はその駄菓子屋に大金を注ぎ込む客ではなかったし、購うものといえば一個20円の、物凄く甘ったるいキャラメルを三つか四つ購うだけだった。
太宰の云うあれ、はきっとそれのことなのだろう。
「無くなっちゃったんだねぇ」
太宰がマフィアを抜けて一年が過ぎた頃だったと思う。おばあちゃんが亡くなったと聞いた。中は伽藍堂だけれど、建物自体はそのまま残っている。
「
ちゃん、よく任務帰りに購っていただろう」
太宰とあの駄菓子屋に行ったのは数える程しか無いのに、よく憶えているものだ。
「あれ、甘ったるくて疲れた躰に丁度良かったのよ」
「ああ、慥に。でもあれちょっと甘過ぎじゃない?」
「だからそれが良いんだって」
「そういうもの?」
「そういうもの」
「そういうものかぁ」と太宰が建物から目を外して歩く。
何処に行くのと訊こうとして、止めた。何となくわかるから。
出掛けようよと早朝に家を訪ねて来たかと思えば、何も云わず私を家から引っ張り出した。今日はお休みだし、それは別に良いけれど、相変わらず何も云わないのねと思い乍ら、手を引かれるがまま付いて行く。
「そういえば
ちゃん、もう自分で運転しなくなったのだね」
時が経てば人も世も変わる。私も例に漏れずその内の一人で、太宰の云う通り自分で運転をしなくなった。あれから四年も経ったのだ。私は前より責任ある立場になった。部下だって運転手だって持てるくらいに。
「随分偉くなったじゃあないか」と太宰は戯けたような声で云う。
太宰が抜けたことで、マフィアは大きな損失を抱えた。けれどその損失を埋められるものは誰も居なかった。誰も太宰のいた席には座れない。それを太宰は一番わかっている筈だ。
「嫌味を云うために私を連れ出したの?」
じろりと太宰を睨めば、太宰は「真逆!」と今度は楽しそうに笑った。
「私はね、
ちゃんにお礼をする為に連れ出したのだよ」
ぴたりと足を止めた太宰に倣って私も止めた。それまで繋がれていた手がするりと離れて、私はそれに安堵したような、寂しいような、そんな気持ちだった。
目の前には一面の青が広がっていた。日の光を反射して水面が輝いている。あの日見たときは真っ黒だったそれが、今は限りなく澄んでいる。
これはお別れだ。私との過去を、私を、精算する心算なのだ。だってそうでなければ、これは何だと云うの。
太宰は変わった。友人の言葉ひとつで、マフィアを抜け、人を救い、私の知らない太宰になってしまったのだ。私を置いて。
ずっと願ってきた。太宰の幸せを。どうかあのとき十八歳だった子供が、幸せになれますようにと。もう一人で泣きませんようにと。そうやって太宰の幸せを願い乍らも、後ろ暗いものばかりを抱える私たちに、光刺す明日など来ないと、そう思ってきた。けれど太宰は行ってしまったのだ。光刺す方へ。私はいつまでも、変わってしまうことを恐れたまま。
「あの日、私を赦してくれて有難う」
何を赦したのだろう。何を赦せば私は救われたのだろう。何にもわかっていないのに、大人の真似事だけは得意なのだ、いつまでも。
風が強く吹いて、太宰の着ている外套がそれに煽られたけれど、もう攫われることはないだろう。
「私、」
私は。言いかけて、口を閉じた。だって太宰が、もう泣いていなかったから。もうきっと、私の言葉は必要ないから。
あの日太宰がくれた紅弁慶はとうに枯れて、もう私の部屋には太宰の形跡は何も無かった。でもそれで良かった。繋がりなんて何も持たないほうが良い。だって何かが残ってしまうと、それに永遠と縋ってしまいそうだから。
(あの日の祈りはそのままで)